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松本治一郎

解放の父 1948年 カニの横ばい事件

img150_600.jpg まつもと・じいちろう
 1887年、福岡市生まれ。差別に直
 面しながら育つ。1923年、全九州
 水平社運動を結成。25年から水平
 社運動の最高指導者。36年、衆議
 院議員。47年から参議院議員。
 66年死亡。




「部落解放運動」をリードし各界、左右に人脈を広げた

岡の同和地区の出身で「解放の父」と呼ばれているのが松本治一郎である。松本は青年時代は大陸浪人を夢見て中国へ渡ったりしたが、本格的に部落解放に打ち込んだのは明治から大正に代わる頃である。1922(大正11)年に水平社ができるとこれに呼応し、翌年、全九州水平社を結成した。
 徳川幕府によって制度として固定化された部落は、1871(明治4年)の「解放令」によって廃止される。しかし数百年間、何世代にもよって伝承され、地域、個人の意識に沈殿した部落に対する差別は法令ひとつによって解消されるはずがなく、変形するか潜在して続いていただけだった。これらにあらがうため日本各地に点在する部落の声をひとつのものとして糾合して力にした松本の功績は大きい。
 松本は家業の土建業経営と部落解放運動に携わって生涯を過ごすが、運動の過程で2回投獄される。軍隊内の部落差別に抗議した1926(大正15)年の「福岡連隊事件」と、差別の原因を作ったのは徳川幕府だとして水平社が徳川侯爵家に爵位の返上を迫った28(昭和3)年の「徳川事件」においてである。その間の様々なできごとは伝記をひも解いてもらうとして、ここでは松本が主役になった「カニの横ばい事件」をとりあげる。一般の教科書には載っていないが、国会をゆるがした大事件である。


【天皇へ拝謁を拒否
後の47(昭和22)年、松本治一郎は日本社会党の参議院となり、初代の参議院服議員長になった。事件があったのは48(昭和23)年の第2国会開会式には天皇が臨席する。その際、便殿(びでん)という天皇専用の豪華な控えの間で、衆参両議院の正副議長が天皇に拝謁することになっていた。その時、拝謁する側は真っすぐ歩いて天皇に近づかず、壁際を横に歩いて近づき、ようやく天皇に正対する。近づく時に、天皇に背中や尻を見せるのは畏れ多いとして作られた習慣である。
 天皇が人間宣言をした新憲法の下でこのような習慣に縛られる理由はないとして、松本治一郎は拝謁を拒否したこれが「カニの横ばい事件」である。参議院各会派は議員総会を開き、真相を調査するということになった。取材にかけつけた朝日新聞に松本はこう説明した。
「お迎えもお見送りも正面玄関までちゃんとした…一人ずつカニの横ばいをして拝謁することになっているのだが…不必要だと考えている」
「カニの横ばい」は、松本が名づけたものだった。占領軍も松本を支持して、国会内の騒動はおさまったが、松本のもとには多数の脅迫状がおくられてきた。 松本はのちに周囲にこう言ったよされている。
「ぼくは"天皇、今日はご苦労産さんです"と言葉をかけたんだよ。そうしたら、天皇が、"いろいろご苦労です"と答えた」
 新憲法下で法の下の平等が法制化したとしても、天皇という地位がなお超越的に存在するなら、深層で部落差別の温存とつながりうることを松本は熟知していた。
 このとき以来、衆参量産議員長の便殿での拝謁は廃止されたことになっているが、「カニの横ばい」ごと、なし崩しに復活したという話もある。

img151_600.jpg








【複雑で深い人脈】
本は戦後、部落解放全国委員会、後の部落解放同盟の結成を推進して中央執行院長に選ばれ、今も部落解放運動の象徴的な存在である。
 しかし松本治一郎はこのように簡単な経歴の人間ではなかった。土建業ではヤクザとの流血の抗争も、なた付き合いもあった。人脈は左右に及んだ。松本治一郎の伝記『水平記』を著した高山文彦は雑誌『新潮45』(2005年7月号)に、外伝として最後の右翼と呼ばれた西山広喜との関係を書いている。西山は若い時に松本のもとで暮らし、終生師事した。その縁は西山の親が遭遇した大逆事件にさかのぼるだという。高山文彦はこう書く。
「一般の人からは恐れられる存在でもあったから、おのずと人は治一郎のことを認めて、闇のひとになればなるほど胸襟をひらいたのかもしれない」(『新潮45』05年7月号より)
(桃井四六氏文面より転載)
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野坂参三

54年目の除名 1992年 日本共産党を除名される

8cce8576.jpg のさか・さんぞう
 1892年、山口県萩市生まれ。1919
 年、イギリス共産党、日本共産党
 に参加。三・一五事件で逮捕され
 るが眼病で仮釈放。モスクワ、ア
 メリカを経て戦時中は中国廷安で
 活動。93年、101歳で死亡。




モスクワの同志を密告して生き延びた"日本共産党の顔"

前からの一貫した歴史を誇る日本共産党のシンボルだった野坂参三は1993(平成5)年に101歳で死去した。これを共産党の機関紙『赤旗』は社会面の片隅で小さく報じただけである。野坂はこのほぼ一年前に共産党を除名されていた。当時、野坂は共産党の名誉議長にあった。除名の理由は同志を密告したというもので、『赤旗』は「恥ずべき行為」であると糾弾した。
 野坂の"密告"問題とは、54年前の39(昭和14)年、しかもモスクワ時代のことである。この頃、モスクワのコミンテルンにはには世界中から共産党員が集まり、そこには日本人共産党員もいて、野坂参三と山本懸蔵が中心だった。野坂はソビエト内務省人民委員会(NKVD)と呼ばれた機関に、山本がスパイだと密告する手紙を送ったのである。NKVDとは共産党内部の粛清担当する機関である。当時のソビエトはスターリンの大粛清時代である。「反革命分子」「人民の敵」「スパイ」という名目で数百名単位とも言われる大規模な粛清が行われた。
 その最中、野坂は山本懸蔵がスパイであることの疑惑を指摘して「ある種の不透明さを感じた」と告発する手紙をNKVDに送った。野坂の告発はほとんど事実に反するものだったが、この手紙によって山本は逮捕され、ソビエト最高裁の軍事委員会の法廷に引きずり出された。山本は自白は拷問によるものであると無実を主張したが、当時のソビエトでそれが通るはずはない。山本はソビエト市民になっていたから国家反逆罪で死刑が宣告され、翌日、銃殺された。


【早くからあった密告説】
坂が山本を"売った"のではないかという疑惑は戦後早くから口にされていた。はじめは病死とされた山本の死に関して、野坂の説明があいまいで不自然だったからである。
 当時、アメリカにいた野坂は、わざわざアメリカからこの密告の手紙をモスクワに送ったが、そうする理由はなんだったのだろうか。同志を"売った"理由については諸々語られている。この時代はスパイの告発はほとんどノルマ化していて、他人を密告しなければ自分が疑われた。とりわけ野坂たちのような外国人はスパイ疑惑の標的だったのである。野坂の妻はモスクワにいて、その身を守るための密告だったのではないかとも言われる。そもそも野坂がスターリンの大粛清を無傷で生き残った自体、奇跡だと言われているのである。
 慶応大学を卒業して名家の令嬢を妻にしていた野坂が、尋常小学校卒業、叩き上げの共産主義者だった山本懸蔵とは肌が合わなかったともされる。治安維持法により日本で逮捕された野坂は眼病の手術をするという理由で釈放され、31年(昭和6)そのまま日本を脱出してモスクワに渡っている。これもまた奇跡だとして、のちに「野坂-警察のスパイ説」がくすぶる理由になった。
13f77d4b.jpg







「何も言うことはない」
坂がモスクワに密かに渡ったとき、その世話をしたのは先にモスクワにいた山本懸蔵夫妻だった。山本の内妻は関マツという女である。マツは芸者上がりで女傑肌の女だとされている。
野坂の密告はそのマツをも対象にしたものだった。マツは死刑を免れたが、その後は流浪を余儀なくされ、シベリアの食堂の皿洗いなどをして生き延びた。日本への帰国を訴えたが受け容れられず、60年代の半ばに死んだとされている。野坂は敗戦の翌年、夫婦ともども凱旋将軍よろしく日本帰国した。
 密告の手紙の存在が明らかになって共産党は13回にわたって野坂を査問しているが、その内容は漏れてこない。日本共産党の除名処分の決定に「何も言うことはない」として野坂は口をつくんだ。その後はマスコミの取材にも高齢を理由にして姿を現さなかった。野坂には共産党員として特別の理論も実績もないが、党内権力だけは外さないというテクニックだけはあった。野坂にはゾルゲ事件への関与なども問題にされているが、最大の謎は「共産党員は死体になるか転向しなければ出ることができない」といわれた治安維持法下の刑務所を「眼病の治療」というだけの理由で出獄できたことである。これも謎のままである。
(桃井四六氏文面より転載)

徳田球一

1950年 日本共産党武装闘争路線へ


img012_600.jpg とくだ・きゅういち
 1894年、沖縄生まれ。1922年、
 創立した共産党に入党。28年
 に治安維持法違反で逮捕され
 る。45年、共産党書記長。50
 年、中国に亡命。53年に北京
 で病死。




日本共産党"空白の5年間"武装闘争を指導した男の悲劇
ウム事件でその適用が議論された破防法(破壊活動防止法)は、日本共産党の活動を対象として制定された。戦前ではなく、戦後の1952(昭和27)年のことである。対象とされた日本共産党の活動とは、武装闘争である。今の日本共産党がつくる党史では"分派による跳ね上がりの冒険王義"とあっさりと片付けられている武装闘争は、しかし党中央の機関決定と上部組織であるソ連コミンフォルムの支持を得た、日本共産党が正式に採用した路線だっつたのである。
 50(昭和25)年の四全協(第四回全国協議会)から五全協にいたり、55(昭和30)年の六全協で正式に終止符を打った日本共産党武装闘争路線は、国際政治とコミンフォルムの方針に振り回されみじめに終わったが、日本共産党80年余年の歴史の中で、もっとも輝かしい時期だったと、野次馬的には見える。その看板だったのがトッキューこと徳田球一である。

『コミンフォルムの指令』
22(大正11)年の日本共産党設立時に入党した徳田球一は28(昭和3)年の共産党一斉検挙で逮捕され、治安維持法違反の罪で敗戦まで刑務所で過ごした。逮捕されたも者のほとんどが転向したなかで、共産主義を捨てなかったのは徳田らわずかの者である。「獄中18年」を看板にして徳田は戦後の再建共産党の書記長の職に就く。では徳田が武装闘争を発案したかというと、そうではない。国際共産主義運動の総本山、コミンフォルムの指導に従ったのである。
 残された資料を見ると、徳田自身は当初は武装闘争を考えていなかったことがわかる。戦後すぐ占領軍に尋問受けた徳田はこう言っている。
 「誓い将来、日本に共産主義が樹立されることはない。向こう百年は民主主義が栄えるだろう。ただし共産主義者たちは、その後、最良のものとして受け容れられると信じている」
 コミンフォルムの指導によって日本共産党が武装闘争路線を採用したのは50(昭和25)年である。朝鮮戦争が始まった年である。コミンフォルム、つまりソ連共産党の狙いは、日本共産党の武装闘争によってアメリカ軍の前進基地化していた日本国内に混乱を起こすことだった。これらの動きはアメリカの情報機関が知るとこだったため、治安維持を目的とした日本の再軍備が提議され、警察予備隊、のちの自衛隊が設立される。
 徳田に率いられた日本共産党は武装闘争を実施したため、破防法はさほどの反対がなく成立した。共産党は「山村工作隊」「中核自衛隊」などの組織を作って活動したが、展望も指導者もいない活動は交番をわずかな火炎瓶で襲撃したり、山中に拠点と称して粗末な小屋を作るなどが主だった。これらの武装組織には軍隊帰りの実戦経験者もいたから、それなりの戦闘力を発揮できたとも言われるが、散発的で小規模なものに終わった。


img147_600.jpg








『謎は秘められたまま』
本共産党による武装闘争の事件としては52(昭和27)年の「白鳥事件」「血のメーデー」が上げられている。ただし帰宅途中の警察官が射殺され、共産党員による犯行であることが最高裁で確定した「白鳥事件」も謎が多く、1万人のデモ隊が皇帝前広場警官隊と乱闘した「血のメーデー」や「蒲田事件」とも計画的、組織的な行動ではなく偶発的な事件だったという説もあり、今も謎に包まれている。
 50(昭和25)年、日本共産党は占領軍からレッドパッケージを受け、徳田たち指導部は地下に潜り、「人民艦隊」と呼ばれたボロ船で中国に亡命した。スターリンが死に、朝鮮戦争が終わってコミンフォルムの方針が変わり武装闘争路線は捨てられる。日本共産党は55(昭和30)年の六全協で徳田らの指導を分派行動と断定して批判し、闇に封じ込めた。その後、共産党の実験を握った宮本顕治とは正反対に、陽気で豪快な徳田球一とその時代を懐かしむ老党員は少なくなかった。

(桃井四六氏文面より転載)

宮本顕治

"ミヤケン" 赤色リンチ事件 非合法時代の共産党を象徴する"スパイ査問"という闇

img011_600.jpg みやもと・けんじ
 1908年、山口県光市生まれ。
 東京帝国大学学生時代に文
 芸評論家としてデビュー。
 31年、日本共産党に入党。
 34年、スパイ査問事件で逮
 捕。45年に釈放。55年六全
 協で党の主導権を握り、実
 質的なトップにつく。



マコーこと浜田幸一は衆議院予算委員会の委員長席に座ったことがある。1988(昭和63)年のことだ。その委員会の一コマである。質問に立つ共産党委員の発言を引き取ってハマコー委員長自らが、突然、発言した。
 「お応えします。我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者であるミヤザワケンジ君を国政の中に参加せしめるような状況を作り出し…」
 共産党が猛反発して委員会は騒然となった。ミヤザワケンジはミヤモトケンジ、共産党委員長宮本顕治の言い間違いである。ハマコーの周囲の議員があわてて耳打ちしたが、訂正するまでもなく、すぐに宮沢賢治ではなく宮本顕治のことだと全員に了解された。立花隆が『文藝春秋』に連載(76年1月号~77年12月号)した「共産党の研究」で、この事件、日本共産党最大のタブー、「赤色リンチ事件」は広く知られていたからである。


硫酸、焼けた火箸
件は33(昭和8)年にあった。当時、日本共産党中央委員だった宮本顕治ら4名が、党員の大泉兼蔵と小畑達夫を監禁して暴行を加え、ふたりのうち小畑を死亡させ、アジトの床下に埋めたとう事件である。暴行は焼けた火箸や硫酸も使った陰惨なものだった。スパイだったことを認めた大泉が逃亡して事件は発覚し、宮本顕治らは逮捕され治安維持法違反、殺人、同未遂、死体遺棄で起訴され、裁判では無期懲役に処せられた。
 判決文にはその状況がこう書かれている。
 「小畑を組み伏せ、尚も大声を発し死力を竭して抵抗する同人を一同にて押しつけ、似てその逃亡を防止せんとして互いに格闘し、因って同人に対し頭部、顔面、胸部、手足等に多数の皮下出血その他の障害を負わしめ、ついに同人をして前記監禁行為と相俟って外傷性虚脱死に因り同日午後二時頃その場に急死するに至らしめた」
 「殺人者」発言の予算委員会はハマコーが委員長を辞任して決着がついたが、スパイ査問事件を巡る立花vs共産党の論争は長く続いた。

img014_600.jpg







『多数のスパイが暗躍』
争の詳細は前出書や関連資料を読んでもらうとして、投じの日本共産党が置かれた時代を抜きにしてこの事件を語るのは不公平である。
 当時の共産党は君主制の廃止、つまり天皇制の打倒を主張していたから非合法の団体である。治安維持法は共産党を対象につくられたものだった。
 共産党の内部に特高警察のスパイが潜入していたのは事実である。伝説的な"スパイM"によって党は破壊的な打撃を受けたし、党員の逮捕はおおむねスパイの暗躍によるものだった。
 一説によると中央委員の半数がスパイだったり、実質上、スパイによって党が運営された時期すらあったという。
 そして逮捕された共産党員は転向するか、野呂栄太郎、小林多喜二のように拷問の果てに殺されるか、宮本顕治のように網走刑務所に死ぬまでつながれるしかなかった。もっとも共産党もコミンテルン経由で入手した拳銃などで武装していたのは、かつて共産党員であった田中清玄らの武勇伝に知られる通りである。
 立花vs共産党の論争は自然消滅していく。宮本顕治に代わり、不破、志位体制が成立し、宮本の影響力が消滅したからである。今、宮本顕治は共産党系の代々木病院に入院している。痴呆状態にあるとも噂されているが、病床がある階はガードされていて、共産党でも幹部しか近寄れないそうである。2007年7月18日午後2時33分、同病院にて死亡。享年98歳。

(桃井四六氏より転載)

小林多喜二

悲劇の「党生活者」 1933年多喜二虐殺事件

img015_600.jpg こばやし・たきじ
 1903年秋田生まれ。小説家。
 幼少のころに北海道・小樽に
 移住。共産主義の影響を受け
 たプロレタリア文学の代表的
 な小説家として知られる。共
 産党の地下活動の末、33年特
 高による拷問を受け死亡。享
 年29。


殺されて伝説になった「プロレタリア作家」の影響力

島由紀夫という作家は、ある意味いやらしい計算づくで、自分を伝説にしようとしたともいえる。しかし、権力に殺害された結果、期せずして伝説となった作家もいる。小林多喜二である。
 現代においても、日本共産党の支持者・シンパから、小林多喜二は愛されてやまない。三島由紀夫が右翼民族主義の志向を持っている人から支持されているのと同様に、小林多喜二は左翼・革新を自認する人々にとって、権力による弾圧の悲劇を語り継ぐのための大きな存在になっている。


『貧困と向き合う』
林多喜二は秋田に生まれたが、すぐに一家で北海道・小樽へと移住する。産業が発展しつつある土地で、多くの労働者たちの姿をみながら、多喜二は育った。開発工事の労働者たちが、タコ部屋から逃げ出してくることも珍しくない環境だった。
 法整備も弱く、企業倫理も希薄な当時の底辺における労働環境は、きわめて劣悪であり、持てる者と持たざる者の差は、いまどきの格差社会など比べ物にならない状況だった。
 貧しさと、働くことの厳しさを目の当たりにしてきた多喜二が、共産主義的な思想に傾いていったのは、自然ななりゆきといえるだろう。
 多喜二は小樽高等商業学校から北海道拓殖銀行に就職するが、この間、小説を書き続ける。そして『一九二八年3月十五日』という小説が大きな反響を呼ぶ。これは治安維持法によって左翼を大弾圧した三・一五事件を題材にした作品だった。1500人以上が逮捕され、拷問による取調べが行われたこの事件は、特高警察の度の過ぎた権力行使を決定づける事件である。以降、特高では殴る蹴るどころか、女性活動家への性的拷問さえ行われたという。
 のちに代表作と言われるようになる『蟹工船』を発表したのが1929(昭和4)年の5月だった。これは蟹工船に乗った労働者の置かれた厳しい状況を書き出し、資本家や軍の権力構造にも迫ったものとして、前作を上回る反響となる。『蟹工船』は、発禁になったにもかかわらず、改訂版などの抜け道を通じてベストセラーになった。こうして多喜二は高名を得ることとなり、プロレタリア芸術ムーヴメントの中心に飛び込んでいく。さらに、非合法だった共産党シンパとしての政治活動にも足を踏み入れていく。
img145_600.jpg







『特高警察の体質』
喜二は30(昭和5)年に逮捕され、治安維持法違反・不敬罪で起訴された。翌年には保釈で出獄することとなるが、10月には共産党に正式に入党する。
 32(昭和7)年からは、宮本顕治らとともに、東京で地下活動に入っていった。蔵原惟人や中の重治といったプロレタリア文学の作家たちが続々と逮捕されていくなか、多喜二は共産党活動を粘り強く続けようとした。この時期の体験が、のちに発表される作品『党生活者』に反映されている。
 そして33(昭和8)年2月20日。多喜二は警察にとらえられ、築地署の拘引されることとなる。多喜二は取調べを受けるさい、偽名を語った。だが、本人だと判明すると、開き直って反抗的な態度に変わった。名のある作家への、過酷な残酷な取調べが始まることになった。水谷龍亮主任、芦田治郎巡査、須田雅六巡査、小沢果巡査らが、取調官だった。
 彼らの拷問が、残酷なものであったのは言うまでもない。木刀やステッキも使用されて、殴る蹴るの暴行が加えられた。翌日、多喜二は遺体となって馬橋の家に運ばれることとなる。死因は、心臓麻痺だと発表された。
 治安維持法による左翼勢力への弾圧は、天皇国家を守るためという大義があった。だが、現場で拷問をした特高の警察官の意識がどのようなものだったのかはうかがい知れない。特高警察官が真剣に国体護持を標榜していたなら、天皇に来ていただいて、「御前拷問ショー」でも演じてみればよかったのではなかろうか。自分のやっている拷問に、確信と意味を心底から見出していたなら、天皇の視線も気にはならなかったはずである。
 密室で被疑者を拷問死に追い込む警察官の心理は、権力者の醜い特権意識でしかない。多喜二の死は、抗いがたい横暴な権力の犠牲として、象徴的な出来事であった。
(栗原正和氏文面より転載)

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