忍者ブログ

[4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

朴烈・金子文子

激烈なる恋人たち 1923年朴烈事件 皇太子暗殺計画と「何が私をこうさせたか」

img143_600.jpg パク・ヨル(和読みでぼくれつ)
 1902年韓国の慶尚北道生まれ。
 本名・朴・準植。皇太子暗殺
 計画をしたとして逮捕される
 が戦後に釈放。74年死去。/
 かねこ・ふみこ
 1903年神奈川生まれ。23年恋
 人の朴烈とともに同容疑で逮
 捕。26年獄中で自殺。「何が
 私をこうさせたか」という儚
 く激しい手記を遺す。

1923(大正12)年は無政府主義者たちへの弾圧が最も激しかった年だった。この朴烈事件も、そのひとつに数えられる。朴烈は19(大正8)年、日本の植民地であった朝鮮半島から、来日した。そして社会主義・無政府主義の活動家たちと交流を始める。朴は22(大正11)年に、金子文子と恋に落ちた。金子文子は子供のころに朝鮮半島に住む叔母の養子として引き取られたこともあり、朴烈への民族差別意識は希薄だった。二人はお互いの気性の激しさに惹かれあう。
 翌23年、朴と金子は無政府主義者のグループ「不逞社」を組織。ここで皇太子(のちの昭和天皇)の爆弾襲撃を計画したとされ、逮捕された。だが、計画は空想的で、現実味が薄かった。
 朴烈事件には、関東大震災の際に起きた民衆や官憲による朝鮮人虐殺の実態を隠蔽するための、権力者側の意図がはたらいていたと見る研究者もいる。真偽はわからにが、少なくとも朝鮮人がひどく差別されていたのは間違いない。朴烈が、韓国の京城高等普通学校師範科の学生だった時代の話として、同化政策の実態を供述している。
「全ての学科は日本語を教えるための学科であり、朝鮮人を日本の奴隷とするために用意されたものであった。博物歴史の教師は日本と朝鮮とは同国であり(中略)忠君愛国を説き、日本の天皇の有難いという事を説明したが、俺達には少しも日本の天皇の有難味がわからず興味を引かなかった」
 朴と金子は自らを無政府主義者と言うよりも虚無主義者であると規定し、法廷で反・天皇制激烈に主張した。そして26(大正15)年、死刑を言い渡されるが、のちに無期懲役に減刑される。だが、殺すなら殺せと言わんばかりの虚無主義者にとってこれは不満であり、金子は獄中で首吊り自殺した。朴烈は22年の長きにわたって獄中にいたが、日本が敗戦を迎え釈放された。そして在日コリアン団体・韓国民団の初代団長となったあと、韓国に戻る。韓国の初代大統領・季承晩のもとで国務委員もつとめたが、朝鮮戦争の際、北朝鮮に連行されたと言われている。そして74(昭和49)年まで生き、北朝鮮で死去した。
(栗原正和氏文面より転載)

PR

難波大助

むなしき凶弾 1923年虎ノ門事件 皇太子に向けた銃口から青年の心の「退廃」と「雄叫び」が

img016_600.jpg なんば・だいすけ
 1899年、山口生まれ。父は議員を
 つとる地元の名士。中学時代から
 学業不振に陥り、旧制高等受験に
 も失敗し、東京に出て早稲田高等
 学院に入学。テロリスト志向を強
 め、1923年、摂政宮を銃撃。摂政
 宮は無事だった。難波はその場で
 逮捕され、翌24年、大逆罪で死刑
 に...


1923(大正12)年12月27日、貴族院開院式に向かう途中の摂政宮(皇太子。のちの昭和天皇)の車をステッキ銃の凶弾が襲った。即座に取り押さえられた男は、警官にさんざん殴られた挙句、連行されていった。
 男は難波大助という青年だった。難波は犯行動機について、13年前に起きた「大逆事件」を引き合いに出した。以下、訊問調書から引用する。
 「(大逆事件)一個のわれわれと同様な人間に過ぎぬ天皇をただ殺さんと陰謀をしたというだけで、いまだなんら実際的な行動に出ずにもかかわらず残忍にも若き24名の命に対し死刑の宣告を下すのは暴虐と言おうか非人道と言おうか、これ以上残念な法律が世界のどこにあるだろうかと言う事を感じた」また、「皇室が無産者への直接圧迫者でないことをは認めます。しかし皇室は無産者へ権力者が加える暴圧の道具でありますゆえに、私は特権階級へ対する厳酷なる警告のひとつとして皇族に対してテロリズムを遂行するものであります」とも言っている。
 だが、難波には、自分の学業不振という現状と、東大・京大に進んだ優秀な兄弟への劣等感、極度にケチだった父親への怨みもあった。こうした不満が強行に結びついたという見方も確かにできる。しかし、訊問調書を通読すると、難波が思想を行動の根拠にしていたことも見えてくる。
 精神鑑定をした東京帝大教授・呉秀三は「本人は幻覚および錯覚を有せず妄想と認むべき固着せる思想もなし、ことに皇室あるいは社会に対して被害的の念を抱くところなく、また自己を特に誇大的に尊重するがごときことなし」と記している。難波は死を覚悟して発砲に及んだ確信犯だった。「ごまかしの生活には堪えられなくなったのだ。アナーキストでござい社会主義者でございと大きな顔をして象牙の塔の奥深く閉じ籠り彼らのいわゆる学理を研究するということと汗の革命運動とは何らの関係がない」(弟に宛てた書簡より)
 24(大正13)年、大逆罪として難波は死刑となった。
(栗原正和氏)より転載


大杉栄

無政府主義者のスーパースター 国家権力によって虐殺されても時代を超越する「眼の男」の声

img027_600.jpg おおすぎ・さかえ
 日本を代表する無政府主義者。1885年、
 香川生まれ。名古屋の陸軍幼年学校に
 入学するもケンカ騒ぎを起こして退学。
 東京外国語大選科に入学したころより
 『平民新聞』で執筆をする。1923年、
 憲兵隊(軍警察)に拘引され、殺害される。




前戦後を通じ、現代に至るまで、大杉栄のファンは多い。そのファン層のほとんどは無政府主義にシンパシーを感じる個人主義者であり、反権力主義者であるのは間違いない。
 12人が死刑となった(1910年)のさい、大杉は赤旗事件の検挙によって獄中にいたため、弾圧を免れた。その結果、一定期間の言論活動の猶予が与えられたわけだが、所詮は10数年の月日でしかなかった。甘粕正彦以下の暴挙によって、大杉は非業の死を遂げることになるが、その運命のイタズラが、彼を無政府主義者のスーパースターにすることになった。


【女にモテる無政府主義】
杉は女性にモテた。そういうことも、国家権力の反感を買ったであろうことは間違いない。外国語学校(現・東京外国語大)を卒業した二十歳のころから、親子ほどちがう女性と同棲生活をしていた。ただし、まだこのころは無政府主義への確信に達してはいない。社会主義という融和的な理念も受け入れるスタンスがあった。
 21歳になり、先の女性とは違う女性と、結婚する。その女性は、作家・堀柴山の妹、堀保子である。妻を得て、いったんんは安定する大杉であったが、それも10年もたなかった。
 30歳のころ、婦人運動家の神近市子と知り合い、深い関係となる。そして翌年には、同じく婦人運動をしていた伊藤野枝と知り合い、関係を結ぶ。伊藤は婦人雑誌青鞜(せいとう)で執筆していたフェミニストの先駆者の一人として知られる。彼女は異端の文学者・辻潤と結婚していたが、大杉に乗り換えた。
 31歳のとき、大杉の節操のない下半身に憎悪を抱いた神近市子に、葉山で刺されケガをする。32歳で堀保子と離別し、同年には伊藤野枝との間に子供・魔子が生まれた。
 痛い目にも遭ってはいるが、女性にモテていたという大杉のキャラクターも、後年のファンも増やしていった理由のひとつだろう。
 しかし、そんな大杉が、天皇制リゴリズムを主導する国家権力の目障りであったことは間違いない。

img028_600.jpg







中央が娘・魔子を抱いた大杉。向かって右が伊藤野枝。この写真は1923(大正12)年、殺された年に撮影された。

【甘粕事件という悲劇】
近市子に刺されてマスコミを騒がせたあたりから、大杉が白色テロルの犠牲となるまでのカウントダウンが始まっていたと言っていい。いまどきのホリエモンと同様、目立つやつは潰すのが、国家権力の体質だからである。
 大杉は、23(大正12)年、関東大震災の混乱に乗じて殺害される。14万人以上の死者・行方不明者出した大震災から、2週間ほど経過した後に、大杉は命を奪われた。殺害したのは憲兵大尉・甘粕正彦、憲兵曹長・森慶次郎らであった。これを甘粕事件という。
 同時に伊藤野枝と大杉の甥っ子である橘宗一も殺された。宗一はまだ6歳という幼児だった。3人の死体はムシロに包まれ井戸に放り込まれた。
 76(昭和51)年に発見された検視資料が、このときの悲惨さを物語っていた。大杉。伊藤の死体には無数の暴行の跡があり、憎しみを込めたリンチの末に殺害されたことは明白だった。
 大杉が支持される理由のひとつに、その容貌もあると思われる。大杉のサルトルのような斜視がかった眼つきは、奇妙な魅力を感じさせるものだ。
 甘粕事件の後、過激性を増してテロに走り死刑となった無政府主義者・中浜鉄(ギロチン社)の追悼詩が、大杉の眼力を描写している。「『杉よ!眼の男よ!』と俺は今、骸骨の前に起って呼びかける。彼は黙ってる。彼は俺を見て、ニヤリ、ニタリと苦笑いしている。太い白眼の底一ぱいに、黒い熱涙を漂わして時々、海光のキラメキを放って俺の顔を射る(後略)」
 大杉は「個人の力」を誰よりも知悉していた。そのため強い個人主義の行使として派手な女性関係を演じる結果になり、厳格な保守主義者たちの反感を買うことになった。
 だが、甘粕正彦という軍組織に殉じた男に葬られた大杉の最期は、保守主義や国家に敗北したのではない。敵対する個人が従属していた場所がたまたま、保守の場であり、国家であったというだけの話とも言える。もちろん、だからと言って、甘粕の罪が相対化されるとも思えないのが、多くの大杉ファンの心情であろう。
(栗原正和氏)より転載



古田大次郎

迷える殺意 1922年ギロチン社設立 イラ立つ無政府主義者は死への道を急ぐ

img019_600.jpg ふるた・だいじろう
 1900年東京生まれ。父は陸軍
 主計官だった。麻布中から早
 大高等予科・大学部に進むも
 、幸徳秋水の「社会主義神髄」
 などに影響を受けて左翼運動
 を始め、中途退学。22年にア
 ナーキスト集団「ギロチン社」
 を中浜鉄とともに創設。強盗
 略奪・爆弾製造・テロを繰り
 返し、25年、死刑に処された。

治末期から大正にかけての無政府主義者たちの運動は、権力による激しい弾圧にさらされた。彼らを勢いづかせてしまうと足元が揺らいでくるという権力者の危機意識が、大逆事件や大杉栄の惨殺といった弾圧に結びついていった。
 日本が戦争の道に突き進むなかで、治安維持につとめたのは自然な流れであった。やがてほとんどの社会主義者・無政府主義者のグループは活動不能に陥っていく。苦しむ抵抗者たちからは、おのずと社旗改良への志向よりも破壊的な気分に支配されたテロリストが数多く出現していった。
 権力に殺害された大杉栄の側近だった和田久太郎は、復習のために福田雅太郎大将(関東大震災時の戒厳令官)暗殺を企て、ピストルで狙撃したが失敗する。この和田や村木源次郎らの無政府主義者グループと協力体制を敷いていたのが、「ギロチン社」の古田大次郎と中浜鉄である。
 古田と中浜の狙いは、当然、やんごとなき人物へのテロだった。
 病弱だった大正天皇にかわり、公務の中心をいた摂政宮(のちの昭和天皇)に狙いを定めていた。
 しかしこれは実行に至らず、他の権力サイドを対象とした爆弾テロを続々と仕掛けていった。彼らは、本富士警察署や、東海道線の鉄橋に爆弾を仕掛けた。だが、これらは不発に終わる。また、銀座の線路に仕掛けたダイナマイトは爆発したが、人への被害は出なかった。
 テロをする資金は、企業に因縁をつけて脅し取る行為によって調達されていた。こうした行為は、「リャク」と呼ばれ、繰り返された。しかしその大半が遊興費に消えていったという。
 また、彼らは強盗にまでも及んでいた。大阪の十五銀行玉造支店小阪派出所で、行員二人からカネを強盗しようとして、乱闘となり、古田は銀行員の一人を刺殺してしまう(小坂事件)。殺人にまで至りながらも、この事件でカネを奪うことはできなかった。
 古田をはじめギロチン社のメンバーは24年までにはほとんど逮捕され、破滅することになった。そして古田も中浜も死刑に処された。 (栗原正和氏)より引用

 

荒畑寒村

時代の荒波をくぐりぬけた 1946年日本社会党結成 横暴な「テロ」は認めない情緒性豊かな社会主義者

 


あらはた・かんそん
1887年、神奈川生まれ。本名・荒畑勝三。
社会主義運動家。戦前は何度も投獄され
ながら社会主義の活動を精力的に行い、
数多くの盟友を失いつつも生き残り、自
由を手に入れた戦後には日本社会党結成
に加わり、衆議院議員も二期つとめる。
その後は言論を中心に活動した。1981年
死去。


 治末期、若き荒畑寒村は、幸徳秋水や堺利彦の『平民新聞』に感銘を受け、社会主義運動に身を投じる。平民新聞の編集にも携わるようになり、多くの左翼活動家たちと知己を得ることになった。
 荒畑は和歌山で新聞記者をしていた時代に、菅野スガと契りを結ぶ。しかし、荒畑が入獄中、スガは幸徳秋水のもとに走ってしまう。
 菅野スガと別れた一件は、若き荒畑の心にしこりを残した。奔放な恋愛をいとわない無政府主義的な価値観に対して、荒畑は批判的だった。
 のちに、大杉栄が痴情のもつれから神近市子に刺されてケガをした事件についても、荒畑はこう語っている。
「(大杉の)神近女子に対する態度はとうてい認めるわけにはゆかぬ。他の一切の自由が存在しない今日の社会で、恋愛だけが自由である筈がない。平生その生活環境に反抗することを主張している彼が、恋愛の満足のために他人の苦痛や悲哀を顧みないとしたら、アナーキストとはタイラント(暴君)の同義語とならざるを得まい」(『大杉栄免聞』1963年)
 荒畑が、自由を標榜する無政府主義者たちと足並みを揃えて活動することができなかったのも、こうしたところに原因があるのかもしれない。
 浅沼稲次郎が山口二矢に刺殺されたとき、荒畑はテロを批判している。
「一人の浅沼稲次郎を除けば、自分の気にくわぬ思想や運動を阻止しうるという考えは、一人の英雄が出現すれば、一切の弊害が改められ、理想的な制度が出来上がるという考えと、表裏一体の迷モウである」(『浅沼君の死をいたむ』1960年)
 荒畑は1960年代から70年代の日本のめざましい経済発展を見届けて、80年代初頭に世を去る。93歳の大往生だった。 
(栗原正和)氏記事より転載

<前のページ 次のページ>

プロフィール
HN:
赤天の霹靂
性別:
非公開
最新CM
[02/06 orionseijin_cacacakah]
[02/06 orionseijin_cacacakah]
[02/06 orionseijin_cacacakah]
[02/06 orionseijin_cacacakah]
[02/06 orionseijin_cacacakah]
ブログ内検索
バーコード
アクセス解析
カウンター

忍者ブログ [PR]

TemplateDesign by 比呂有希|ススメ::342blog