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"革命戦争"を目指し北朝鮮へ赤軍派9人の「挑戦の結末」
たみや・たかまろ
1943年、岩手県生まれ。父は農林省
の役人。大阪市立大学時代に学生運
動をはじめる。69年、赤軍派結成に
参加し、軍事委員長に就く。70年、
ハイジャックで北朝鮮に亡命。95年
、心臓麻痺で死亡したとされる。
1970(昭和45)年、羽田発の全日空機よど号が過激派の赤軍派にハイジャックされ、赤軍派9名がきたちょうせんに亡命した。これが「よど号事件」である。ハイジャックのリーダー田宮高麿は95(平成7)年に平壌で客死した。その翌年、『回想田宮高麿』という追悼集が出版されている。全302ページ、定価3,200円の分厚い本は、前編、田宮高麿への追悼と賛辞で埋め尽くされている。寄稿してるのは赤軍派関係者などの運動の"同志"が主である。そういうひいき目を慎重に差し引いても、田宮高麿という男が仲間のうちでは高い評価を得ていたことは納得できる。田宮に対する共通した評価は行動力と統率力、度胸である。これは"同志"以外でも田宮にあった人が抱いた印象である。
「そうそうたる活動家たちを自分の回りに座らせ、あぐらをかいて任務を与えていたのだが、その情熱的で手際のよい連射砲のような話しぶりに並みの活動家ではないという印象をさらにつよくした」(同書)
小学校時代の友人は田宮がガキ大将だったと回顧して、それは「腕力があって力づくで皆を押さえていたわけではなく彼の転生の明るさ、人懐っこさ、遊びのリーダーシップ」によるものだったと書いている。
【リーダーシップを発揮】
こうした田宮の特性はハイジャックの現場で遺憾なく発揮された。『文藝春愁』70年6月号は、事件を特集してハイジャックに巻き込まれた乗客の声を拾っている。
「犯人たちは、学生だけあって、どこかウブなところが残る顔立ちだった。その中で、田宮だけは暴力団に入っても立派にやっていけそうな、凶々しい目つき」
「"組長"田宮がマイクをとって演説した。『自分の指揮に従えぬもの、殺してくれというものは、殺しましょう。これはたんなるコトバではない』そういう田宮の声はこづらにくく落ち着いていた」
実は田宮が振り回していたピストルはオモチャで日本刀は刃が立っておらず、爆弾は未完成品だった。実行グループは赤軍派の軍事部門で田宮がその責任者、司令官だったから迫力はある。乗客の中には共産党系の組合関係者がいたらしく、こんな評価もしている。
田宮の統率力、判断力はかなり優秀だったと思った。いまは、あやまったトロツキストの道を進んでいるが、はじめから正しい民主革命路線の方向にのびていれば、いい革命家になれただろうに」
田宮はいったんだまされて韓国の空港に着陸しているし、韓国軍を含めた警備側とはギリギリのやりとりがあった。リーダーが田宮という戦闘的で優れた"鬼軍曹"でなければ、失敗していた可能性もある。
一方、自身も認めているように田宮は理論にめっぽう弱かった。吉本隆明の本には1ページたりともついていけなかったと告白している。もっとも一部左翼には教科書扱いされた吉本隆明の本が運動の実際に有益だった例はひとつもないから、田宮の態度の方が正しかったかもしれない。
田宮の目的とは、市民の全面的な蜂立に先立ち前衛党が武装闘争をするという赤軍派の「前段階武装蜂起論」にのっとり、北朝鮮で軍事訓練を受けて日本に上陸し、革命戦争を戦うというものである。
【チュチェ思想に染まる】
田宮高麿は北朝鮮に行って金日成を論破する予定だった。犯人グループのひとりが着ないでこんな演説したという証言がある。
「金日成をゴウカンして、"あげてよかった"と言わせたい」
すでに北朝鮮にとどまっている彼らのみに配慮してだろう、『文藝春愁』はその名前を明らかにしていないが、9人の顔ぶれを考えれば、これは田宮がぶった演説に間違いない。しかし"鬼軍曹"田宮はものの数ヶ月でチュチェ思想に染まってしまう。チュチェ思想は「すべてが人間に由来する」という頭を中世ルネサンス期に戻せという"思想"である。ハイジャック期にバッグに携えたマルクスもヘーゲルも軽く飛び越えてしまったのである。
(桃井四六氏文より転載)
「血盟団員」だった右翼の父と語った"世界同時革命"
しげのぶ・ふさこ
1945年、東京生まれ。明治大学
二部在学中に学生運動に身を投
じる。赤軍派に所属して71年、
パレスチナに渡る。その後、日
本赤軍の最高責任者。2000年、
密かに帰国中に大阪で逮捕され
る。
日本赤軍の重信房子が大阪の高槻で逮捕されたのは2000(平成12)年11月である。日本を出国したのが1973(昭和48)年だから丸々27年間、姿を消していた。逮捕後、オランダッで起きた「ハーグ事件」における監禁・殺人未遂の共謀共同正犯の罪で起訴され、06年6月、東京地裁で判決があった。裁判は有罪、無期懲役の求刑に対して懲役20年の刑が言い渡された。重信は無罪を主張して即座に高裁に上告している。
日本赤軍と、そのリーダーだった重信房子についての報道や記録はおびただしいが、なかでももっとも興味深いのは重信の父への取材である。重信(偽装結婚しているか戸籍上は奥平)房子の父、重信末夫は戦前の右翼テロ事件「血盟団事件」に関係した男である。このことを発掘してはじめてインタビューしたのは、まだ産経新聞の社員だった鈴木邦男である。民族派の『やまと新聞』紙上に掲載されたインタビューで、鈴木の質問に重信の父はこう言った。
「警察が何回捕まえようと、マスコミがどうこう言おうと自分の初心を貫くことは立派だと思う」
「戻るな」と言った父
インタビューは74(昭和49)年。日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件が起き、パレスチナに渡った日本赤軍幹部として重信房子の名が禍々しいものとし報道されたあとである。この2年前には浅間山荘事件があり、東京の町田に住んでいた重信の父のもとには嫌がらせの脅迫が殺到していた。鈴木は重信の父の態度と言葉に心を打たれる。鈴木が原稿を書き、記事になって原稿料を手にしたのはこの時がはじめてであり、このインタビューをきっかけとして産経新聞を辞めて民族運動に専念することになる。
重信の父は『文藝春愁』に「重信房子の父として」と題された7ページの手記を残している。教育者だったからか文は達者である。そこで冒頭からこう記している。
「房子が外国へ行くとき、わたしは『戻るな』と言った。どこへ何をしにくのか知っていたわけではない。だが革命家というのはいつも、大きな流れの中で寂しくてきびしい思いをする」
重信末夫は宮崎の都城出身。現在の東京理科大学を卒業して故郷で代用教員をしていた時に血盟団事件に誘われる。しかし首謀者の井上日召に「お前は教育者だ」とあとのことを託されてテロの実行役からはずされている。
【田宮高麿との結婚を嫌う】
パレスチナに渡る以前、重信房子は家に学生運動のメンバーをよく連れてきている。そこでたびたび父を交えた会話と議論があった。かなり深い話もあったようだ。
「私がかつて右翼クーデターに参加した人間であることは、子供たちは知っている」「話題は当然、革命に及んだ。歴史の大きな流れのために、私は革命は時には必要なものだったと思っている」
しかし赤軍派についてはこう言う。
「房子の言う赤軍の世界同時革命という理論だけは、私は最後まで反対だった…中国で言う天が、仮に客観的必然性といったことを指すとするなら、房子たちの理論にはまったく天がかけていた」
手記の最後はこう結んでいる。
「ともあれ、房子は海のかなたに去った。アヒルは記しには戻らないだろう、と私は考えている」
パレスチナへ入ったのは、抑圧されているパレスチナ人と共闘して、そこを根拠地として世界同時革命を闘おうという目的のためである。
重信の父は娘が国際手配を受けたあとも堂々と生きて、83(昭和58)年に73歳で死んだ。
逮捕のときこそ、その豹変ぶりから「ふつうのオバサン」と揶揄されたが、重信房子を罵る言葉は右からもない。左にとっては今も「全共闘のジャンヌ・ダルク」で、田宮高麿にいたっては「史上最高の女は重信房子だ」と叫んだ。
重信のパレスチナ行きには、その田宮が関連しているという話がある。赤軍派議長の塩見孝也から重信房子に北朝鮮に渡って田宮と結婚せよとい指令があり、それを嫌った重信がほとんど思いつきでパレスチナ行きを決意したというのである。これは事実だと思われる。
(桃井四六氏文より転載)
100人以上の死者を出した中核vs革マル「内ゲバ」の原因
くろだ・かんいち/ひろかず
1927年生まれ。旧制東京高校を結核で
中退。57年、革命的共産主義者同盟全
国委員会議長。63年、委員会を出て革
マル派を結成して議長に就く。以降、
革マル派に君臨し続ける。06年、病死。
ほんだ・のぶよし
1934年、埼玉生まれ。中学生で日本共
産党に入党。56年、日本共産党のあり
かたに反対して日本トロツキスト連盟
、翌年、革命的共産主義者同盟結成し
全国委員会書記長に就く。75年、革マ
ル派に襲われて死亡。
100人以上の死者を出した中核vs革マル「内ゲバ」の原因
「内ゲバ」の"ゲバ"とはドイツの語のゲバルト(Gewalt-暴力)の略である。それが内部に実行されるのが「内ゲバ」ということになる。今では仲間同士のもめ事一般にも使われるが、この言葉が登場したのは60年代末、学生運動のなかである。当初は全学連内部の異なるセクト同志が角材を振り上げて争うという牧歌的なものだった。
しかし全共闘運動が終焉した70年以降は内ゲバは大セクトの中核派、革マル派の流血の抗争に代表されるようになる。内ゲバという言葉はがぜん陰惨な響きをもつようになった。両派の争いの支社は00人以上、不具を残す重傷者をふくめた負傷者は千人単にのぼるとも言われている。
1975(昭和50)7月17日東京・新宿駅で、待ち伏せしていた中核派が到着し
た電車内の革マル派に襲いかかり大乱闘。乗客も含め多数のけが人が出、
321人が逮捕された。写真は竹ざおなどが散乱する京浜東北線電車の内部
。戦闘力そのものでは中核派の勝ち、情報戦では断然、革マル派の勝ち
だったとされている。
【異なる内ゲバ論】
ただし両派ともこれを内ゲバであることを否定する。両派の内ゲバが最高潮を迎えていた75年(昭和50)年、中核派書記長、つまり最高指導者んp本多延嘉は立花隆の質問にこう答えている。
「二つの社会的な集団が物理的手段を使って闘争しあう中では、死者が出るのは当然ではないか」「戦争に戦死者はつきものじゃないか」(立花隆『中核vs革マル』より)
本多は他の機会でも全く同様の発言をしている。戦争であるというのが中核派の見解である。
一方の革マルはどうか。革マル派の最高指導者はクロカンこと黒田寛一である。黒田はこの争いを戦争とは名づけず、中核派の殺人行為に対する正当な報復であり、組織防衛にすぎないとする。
「殺しをやった特定の党派の革命的解体を目的にした闘争が、直接的党派閥戦争だ」(玉川信明『内ゲバにみる警備公安警察の犯罪・下』より)
呪文的で独特な言い回しのクロカン語を翻訳すると、"革マル派による攻撃は、殺人をやった中核派を潰すための行動である"となる。
ようするに同じゲバでも両派によって意味が違うのだが、これは両組織の根本的な違いに対応する。中核派は大衆運動、直接行動優先だが、革マル派は革命を行う党の構築を優先する。
ここらへんは革命運動の神学論争に近づいていくのだが、実は、両者はもともとはひとつだったのである。
日本共産党の議会主義に対して翻して59(昭和34)年に作られた革共同(日本革命的共産主義者同盟)が結成された時の主要メンバーが本多延嘉、黒田寛一である。63(昭和38)年に黒田のグループがここを飛び出して革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)を結成する。残った本多のグループは黒田らを分派と規定して、同盟の全国委員会の組織を抑えていた自分たちを中核派と称した。
"日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派"とはあまりに名前だが、実はここにも革マル派-クロカンの特徴が現れている。同じ意味の語を同義反復で呪文的にアジるのがクロカン節の特徴なのである。
【革マルに殺された本多】
両派の内ゲバは本多殺害でピークを迎える。75(昭和50)年、本多は隠れ住んでいた埼玉県川口市の田んぼのなかのアパートで革マル派に襲撃され、頭を割られるなどして殺される。対して中核派は報復戦に出たが、さすがに世論の風当たりは強くなり両派のゲバは下火になっていった。
本多延嘉は名家の生まれだったとされるが、中学生で日本共産党に入党している。弁舌と組織作りの巧みさは早くから新左翼内で注目されていた。カリスマ性もあったから、たちまち人を集めた。黒田らと革共同を結成した時は早稲田の学生だった。
黒田寛一は独学でマルクス主義を学んだ。20代に結核で失明し、毛髪もほとんど抜け落ち、人前に出る時は登山帽とサングラスを着用した。人前に出ることはめったになく、革マル派の集会はクロカン節の演説テープで流されるだけだった。趣味は秘書に読んでもらう読書と音楽鑑賞。一時、演説が流れる前にはクロカンが好きなコンチネンタル・タンゴが流された時期もあるという。そんな黒田の人格が革マル派の秘教的性格を作ったとも言える。
中核派の襲撃を逃れ抜き、2006(平成18)年6月、埼玉の病院で肝不全で死んだ。78歳だった。
(桃井四六氏文面より転載)
いまや靖国神社に参拝するかつての新左翼の"カリスマ"
おおた・りゅう
本名:栗原登一。1930年、
樺太生まれ。東京理科大学
中退。46年、日本共産党に
入党。51年、日本トロツキ
スト連盟の結成に参加。57
年日本革命的共産主義者同
盟の結成に参加し60年代末
から世界革命浪人を名乗っ
て発言。
『300人委員会』という本がある。内容は世界には「300人委員会」という国際的な秘密組織があって、それが世界の歴史を牛耳っているのだという内容である。委員会を構成するのはエリザベス女王をはじめとするヨーロッパ貴族をやユダヤ財閥ということである。この本によるとケネディ暗殺もコンピュータ2000年問題もその委員会の陰謀によるもの、さらにフランス革命もロシア革命もこの委員会が成し遂げたものだというのである。
業者はイギリス情報部MI6いたジョン・コールマンなるイギリス人で、日本版の訳者は太田龍という男である。調べると、太田龍の編・訳・著書は100冊弱を数える。近年の編・訳・著書をざっとあげると他に『ダヴィストック洗脳研究所』『中国食人史』『縄文日本文明一万五千年史序論』などがある。言ってみれば"と学会"ジャンルの本だが、実際に太田龍のいわゆる"ユダヤ陰謀"本は、学会編『トンデモ本の世界』(宝島社)で採り上げられている。
【革共同の立役者】
太田龍は現在76歳。かつては太田竜と名乗っていた。「太田龍」は一トンデモ本作者で済むのだが、「太田竜」は日本の左翼運動に名を残す一人である。57(昭和32)年、日本革命的共産主義者同盟(革共同)の設立の中心メンバーだった。初期の著作を調べてみると、『日本革命の根本』(69年)、『辺境最深部に向かって退却せよ!』(71年)、『世界革命への道』(78年)と革命関連の著作がずらりとならぶ。とりわけ『日本革命の根本問題』は新左翼運動の教科書として名高かった。新左翼運動の黎明を告げる革共同の前進、日本トロツキスト連盟の立役者の一人でもある。これは連盟といっても数人が集まった研究会、同人にすぎなかった。日本共産党が「六全協」で武力革命を捨てて以降、革命を指導する党をどう作るかが日本の左翼の最大の課題だった。太田竜はそこに参加したひとりだったが、その後はポジションを転々とする。
ただしセクトを率いたりするという実際の活動の実績はない。時代の熱狂の中で、言葉だけでカリスマになった。
太田竜は74(昭和49)年、全国に指名手配された。容疑は暴力行為である。太田は自ら警察に出頭して逮捕される。容疑の 暴力行為とは北海道静内町にあるアイヌの英雄シャクシャイン像の台座を傷つけたという些細なものである。しかし全国紙は太田の逮捕を大々的に報道した。三菱、三井爆破事件の爆弾テロ・グループ「東アジア反日武装戦線」の黒幕と擬されていたからである。
太田竜とグループの直接の関係は立証されず、この件では早々にシロと断定された。実際に接触や交流はなかったとされる。しかしアジアから日本"帝国主義"を包囲するという「東アジア反日武装戦線」の現実離れの理論は太田の影響を受けたものだった。三菱、三井爆破事件とは、74年、三菱重工業ビル、三井物産、鹿島建設が連続爆破された事件である。三菱重工業ビルの爆破では8人が死亡、380人が負傷している。この当時アイヌ解放にのめり込んでいた太田は「アイヌ解放には武装テロが必要」などと書いていた。
三菱。三井爆破事件では逮捕された「東アジア反日武装戦線」の2名に死刑が言い渡され、ひとりが自殺している。太田は自ら出頭し、グループとの無関係を主張して刑務所暮らしは逃れた。この一件以来、新左翼に及ぼす影響はまったくなくなった。
【エコロジーから反ユダヤへ】
この後、太田竜はエコロジー運動に流れ込んでいく。83(昭和58)年には「日本みどりの党」の結成に参加して参議院選挙に立候補したりと目まぐるしい。エコロジーの次に進んだのは"反ユダヤ主義"である。太田竜から龍へ改名したのも、「旧字体を使わないようにすることは、日本語を破壊しようとするユダヤの陰謀」(『週間新潮』99年9月9日号より)だからである。
その主張を大雑把に説明すれば、世界はユダヤが支配し、ユダヤ資本に牛耳られたアメリカがその尖兵なっているというものである。
太田龍は、いまや靖国神社に参拝し玉串料を捧げるナショナリストに変貌している。
(桃井四六氏文面より転載)
国民的人気ゆえに委員長になりその人気ゆえに"暗殺"される
あさぬま・いねじろう
1898年生まれ。東京都三宅村
(三宅島)出身。早稲田大学時
代に社会主義運動に参加し政
治家を志す。1960年、社会党
委員長に就任。同年10月、日
比谷公会堂で暗殺される。
「議会政治が混乱するのは選挙の時には国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占めるとその多数の力でなんでもやろうとするところにある。選挙は……」
日本社会党委員長、浅沼稲次郎の演説がここまで進んだ時、突進してきた小柄なひとりの少年の体がぶつかって演説は途切れた。少年は匕首(あいくち)をかまえた山口二矢である。刃は浅沼の心臓に達していた。倒れた浅沼の体は痙攣し、病院に運ばれたがほとんど即死だった。1960(昭和35)年10月12日、午後3時過ぎ。場所は日比谷公会堂、3000人の聴衆が見つめる壇上の上の出来事である。
浅沼は身長175センチ、体重が100キロを超える巨漢に独特のだみ声、そして右翼に暗殺されたことから、社会党の戦闘的な左派だったと誤解されることがある。右派、左派、中間派が入り組んだ当時の社会党のなかで浅沼は自らを正統派と呼び、激しい派閥争いからは距離がある政治家でも会った。出身は右派であり、天皇・皇室尊重というよりも、崇拝者だった。
"日中共同の敵"
では浅沼がなぜ右翼の目の敵にされて暗殺されたのか。右翼がとりわけ問題にしたのは、浅沼が訪中した時の演説で語った「アメリカ帝国主義日中共同の敵論」である。社会党内部からも批判があったこの論は、その前後を読めばさほど偏った反米論ではなかった。浅沼の演説はこうだった。
「台湾は中国の一部であります。沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらず、それぞれ本土から分離されているのは、アメリカの帝国主義について、お互いは共同の敵として戦わなければならないと思います」
この演説を真っ先に批判したのは自民党幹事長の福田赳夫である。それも「日中共同の敵」という部分だけをピックアップした批判だった。演説の原稿を書いたのは浅沼ではなく同行していた左派の社会党員だったが、日中国交回復を自分の使命と信じはじめていた浅沼は"共同の敵"という言葉を採用したのである。これが右翼の浅沼攻撃の格好の恰好の材料にされた。
この年の6月には日米安保条約が大騒動の末に改定されて、日本にはその余燼がまだくすぶっていた。右翼陣営の危機感は強かったのである。であるなら、浅沼はたまたま社会党の委員長の職にあったから暗殺されたとも言えるが。それだけではなかっあ。浅沼の国民的人気である。
粗末なアパートに暮らし、背広も靴もボロボロで頓着しなかった浅沼は記者からも「ヌマさん」と親しまれた。家では古びた着物を羽織って愛犬と散歩し、自他ともに大衆政治家と認めた。しかも戦前の無産政党時代から一貫した左翼の闘士であり、逮捕経験もある。その時は警察に壮絶なリンチを受けている。
【2回神経を病む繊細さ】
理論家ではなかった浅沼の演説は攻撃的だったが解りやすく、運動で培われた声の迫力もあって、時に国民を熱狂させた。浅沼は「演説百姓」を自称した。
風貌と行動から「人間機関車」とあだ名された浅沼を豪傑と見る国民もあったが、まったくの誤解だった。浅沼は戦中と戦後、2回にわたって神経を病んで入院している。1回目は戦前の社会大衆等を解散して大政翼賛会に加わった時である。浅沼の意とは異なり大政翼賛会は軍部の御用機関になった。2回目は戦後、社会党が左右に分裂した時である。この時の病は重く、再起不能とも言われた。病床では留置所で警察にリンチされた夢にうなされ続けたとう。
こうした浅沼の病歴を山口二矢は知らなかった。二矢が知らなかったことがもうひとつある。浅沼は庶子、つまり私生児であった。母親は三宅島の貧しい八丈紬の織子だった。その母とは幼時に別れている。「必ず弱いものの立場に立つ」ことを生涯の生き方としていた浅沼稲次郎はその人気ゆえに社会党の委員長にまつりあげられ、殺された。浅沼の死後、日本社会党は解りづらい理論闘争にエネルギーを費やしていくことになった。
(桃井四六氏文面より転載)