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さかい・としひこ
1871年福岡生まれ。旧制一高中退。
小説家を目指すが、『萬朝報』や
『平民新聞』の言論人として注目
される。日露戦争に反対の立場を
とぅた一人。社会主義・共産主義
の思潮をいち早く取り入れ、一時
は東京仕儀会議員も努め、故郷に
は農民労働学校を設立する。1931
年脳出血で倒れ、33年に死去。
1903(明治36)年、日露戦争に関して日戦争論を訴えていた『萬朝報』が、戦争論に方針転換したことの影響は大きかった。萬朝報で執筆していた有為の人材が、数多く朝報社を去ることとなったのである。大逆事件で死刑となる幸徳秋水や、キリスト者・内村鑑三、のちにエコロジー的な土民生活を唱える石川三四郎…そして、堺利彦も、萬朝報を去った一人だった。
堺は幸徳とともに「併民社」を設立し、『平民新聞』を発行することとなった。ここで反戦・平和のスローガンが定番になっていったのは、この時期の活動家による影響が大きい。
【赤軍事件という分岐点】
明治から大正にかけての社会主義者・無政府主義者たちは、それぞれが深いかかわりを持ちながらも、一枚岩だったわけではない。現代の左翼陣営にも通じる内部対立・分裂の図式は当時からすでにあった。それは主に「議会政策派」と「直接行動派」という二派によるものと言ってもいい。
暴力団を容認するスタンスを持っていた「直接行動派」が幸徳秋水らの無政府主義者であり、「議会政策派」は議会を通じた穏健な方法論を主張していた。前者は「硬派」、後者は「軟派」とも称された。また、前者はテロも辞さない過激性を有していたのに対し、後者は融和的なスタンスをとっていた。 08(明治41)年6月の「赤旗事件(錦輝館事件)」は、当時の左翼活動家たちのスタンスの違いが浮き彫りになる事件だった。
赤旗事件は、集会帰りの社会主義活動家たちと警察官が小競り合いになった事件だ。堺はこのときの様子を以下のように記している。
「一群の青年の間に、赤い、大きな、旗がひるがえされた。(中略)玄関口の方がだいぶん騒がしいので、わたしも急いで降りてみると、赤旗連中はもう表の通りに出て、そこで何か警察官ともみあいをやっていた。わたしが表に飛び出したときには、一人の巡査がだれかの持っている赤旗を無理やり取り上げようとしていた。多くの男女はそれを取られまいとして争っていた。(中略)少し離れた向こうの通りに、そこでもまた、赤旗を中心に、一群の男女と二、三人の巡査が盛んにもみあっていた」(『赤旗事件の回顧』より)
このとき、堺は制止に飛び回ったが、結局、検挙されることとなった。この集会には、『硬派』『軟派』の両派が参加しており、赤旗を振って挑発行動に出たのは「硬派」の人々であった。ただし、幸徳秋水はこのとき故郷に帰っていて、いなかった。
【融和的な方向】
堺はどちらの派でもないと自称していたが、幸徳らと友人関係が深かったため、軟派側には硬派の一人と目されていたところもある。自らも、「もし無政府主義が社会主義と別のものであるなら、自分は無政府主義者ではないが、自分は社会主義と無政府主義とを同じものと信じているから、その意味において無政府主義と言われてもかまわない」と述べている。だが、これはあくまで消極的肯定であって、堺が無政府主義者でなく社会主義者なのは間違いない。何度も入獄はしているが、本質的に堺は融和的な社会主義活動家であり、極左的なラディカリズムとは縁遠いキャラクターだと言える。
堺のバランス感覚は、無産政党の組織への尽力、選挙への出馬というかたちで表れている。29(昭和4)年には、東京市議会議員にトップ当選して政治家となった。立候補したときに「市議会を階級闘争の新戦場たらしめよ」という所信を述べている。これは、表玄関から社会変革をしようと試みる姿勢だろう。また、晩年は地元福岡の豊津に農民労働学校を設立し、社会主義思想を教育の現場から広めていった。しかし、31(昭和6)年に脳出血で倒れてからの堺は、狂気じみた状態に陥った。混乱して暴れることもあり、冷静な人格は見る影もなかったと言われている。
なお、堺利彦の娘・堺真柄も社会主義思想を持った活動家だった。日本におけるフェミニスト団体の原点のひとつ[赤瀾会]の結成に参加し、第二次世界大戦後も女性の視点に立った活動を続けた。
こうとく・しゅうすい
1871年、高知生まれ。明治時代の言論人。
社会主義・無政府主義思想を説いた。著
作に『二十世紀の怪物帝国主義』(1901)、
『社会主義神髄』(1903)などがある。明
治天皇暗殺を企てたとされる「大逆事件」
で首謀者の嫌疑を受け逮捕され、翌年の
1911年、死刑に処せられた。
日本の社会主義運動・無政府主義運動においてまず最初に取り上げられなくてはならない人物は、やはり幸徳秋水ということになるだろう。
江戸時代の安藤昌益のような特異な思想家を左翼の源流に位置づけることも可能だが、何より天皇を中心とした日本という近代国家では、幸徳をおいて他にいない。彼が処刑に処せられた「大逆事件」は、のちの日本の国家権力と左翼運動の対立関係を予見させる出来事だった。
大逆事件は、明治天皇を暗殺しようとした計画が発覚したものである。この事件に連座して、起訴されたものは26人。うち2人が有期刑、12人が無期懲役、12人が死刑となった。しかもほとんどは審理らしい審理もなく、裁判はスピード決着した。
【具体性なき爆殺計画】
この強引な決着は、1907(明治40)年に制定された刑法における「大逆罪」の規定によるものだった。現在の刑法も、この年に制定されたものが踏襲されているが、大逆罪・不敬罪といった項目は、第二次大戦後に削除されている。
大逆罪は刑法の73条に規定されていた。天皇および皇族に危害を加えようと計画しただけで、いきなり死刑という規定である。
こうした背景から、天皇を中心とした国家体制維持のため、幸徳以下12人を死刑に処すという決着は権力側にとって当然の判断であっただろう。
しかし、この事件の裁きが当時の司法制度に照らしても不当であった…と、疑問を投げかける研究者は多い。幸徳は見せしめ的に死刑になったという理解が一般的になっている。
明治天皇を暗殺しようとしたテロ計画は、確かに実在した。だが、それは現実味の薄いものだった。
最も積極的にこの計画をイメージしていたのは、山梨県出身の職工・宮下太吉である。労働者を取り巻く卑劣な環境に疑問を抱いていた宮下は、社会主義・無政府主義の文献を学ぶうちに、天皇暗殺という着想に至った。そして、幸徳の妻であり新聞記者でもあった菅野スガも、宮下に共感して、テロを思い描いた。
宮下は実際に爆裂弾製造に成功する。器用な細工名だけに、ブリキ容器でつくられた爆裂弾を完成させた。そして、信州・明科の山中において、爆破実験も試みた。ここに新村忠雄・古河力作も加わり、計画は練られた。だが、日程も具体化せず、計画は漠然としたものでしかなかった。幸徳秋水も、宮下の計画を聞いてはいたが、乗り気ではなかったと言われている。
【萬朝報から平民新聞へ】
大逆事件に巻き込まれるまで、幸徳は新聞記者として精力的に言論に取り組んだ。まずは黒岩涙香が創刊した『萬朝報』紙面において、非戦論を訴えた。日本が日露戦争へ突き進んでいかんとしている1903(明治36)年のことである。だが、世のムードが戦争論へと傾いていったため、黒岩の方針も時流に乗らざるを得なかった。
左翼の源流・幸徳と反戦思想は、切っても切り離せない。幸徳は非戦論を主張できなくなった萬朝報を去る。そして『平和新聞』を創刊し、言論の場を自ら確保した。そして非戦論や韓国併呑反対を訴え続けた。
言論人としての幸徳は当初、議会制による段階的な社会主義革命を支持していた。だが、渡米後、クロポトキンの影響下で、無政府主義思想を強めていった。こうした思想表明が権力者側の見せしめ処罰として、都合のいい対象となったのは間違いない。無政府主義の持つ過激性が、権力者側の敏感な反応を招いたであろうことは想像に難しくない。
幸徳の思想の変化は一般的な左翼とは逆方向の流れと言える。年輪とともに融和的な思想になっていくのが人間の自然な流れだが、幸徳の時代は「無政府主義」というものがまだ現実社会の展開として成立しうると思われていた。やがて理論としても社会革命としても、無政府主義はマルクス主義に敗北していく。このプロセスを知ることなく、幸徳秋水は死刑判決を受けた法廷で、「無政府党万歳!」と叫んだと言う。のちに左翼の原点と称される彼の誇りが、この叫びを生んだ。 (栗原正和)氏記事より転載
昭和27年02月20日 東大ポポロ事件
昭和30年06月03日 京大総長監禁事件
昭和34年11月27日 全学連国会構内乱入事件
昭和35年01月16日 全学連羽田空港ロビー占拠事件
昭和35年06月03日 全学連首相官邸乱入事件
昭和35年06月15日 安保条約批淮阻止6・15統一行動、全学連国会構内に乱入
昭和37年06月21日 京都府学連デモ事件
昭和41年02月22日 早稲田大学占拠事件
昭和41年05月30日 横須賀基地侵入事件
昭和42年09月13日 法政大総長・学部長不法監禁事件
〃12月12日~22日 名古屋コインロッカーダイナマイト所持事件
昭和43年1月~4月 成田(三里塚)闘争
〃06月21日~22日 アスパック阻止事件
〃 09月04日 日大仮処分執行に伴う公務執行妨害事件
〃 10月08日 新宿事件
〃 11月07日 沖縄奪還・騒擾事件・安保粉砕闘争
昭和44年1/18~19 東大封鎖解除事件
〃 03月03日 京大入試妨害事件
〃 04月12日 岡山大検証事件
〃 04月28日 沖縄デー闘争
〃06月08日~11日 アスパック阻止闘争
〃08月17日~18日 広島大学封鎖解除事件
〃 09月03日 早大大隈講堂封鎖解除事件
〃09月20日~22日 京大封鎖解除事件
〃 09月22日 大阪革命戦争(赤軍派が大阪市街で派出所を火炎瓶で襲撃)
〃 09月30日 赤軍派・本富士署襲撃(東京戦争)
〃 10月14日 九大封鎖解除事件
〃 11月04日 米軍厚木航空基地爆破未遂事件
〃 11月05日 赤軍派大菩薩峠事件
昭和45/3/31-4/5 日航機よど号乗取り事件(赤軍派)
〃06月14日~23日 六月安保闘争
〃 08月03日 中核派による東京教育大生リンチ殺人事件
〃 12月18日 日共革命左派神奈川県委員会による警視庁・志村署上赤塚派出所襲撃事件
昭和46/2/22-3/22 赤軍派、千葉・神奈川・宮城県下で金融機関連続襲撃事件
〃 07月23日 赤軍派、鳥取米子市で銀号強盗事件
〃 11月14日 中核派による渋谷暴動事件
〃 11月19日 中核派による日比谷・松本桜など焼き打ち事件
〃 12月18日 警視庁警務部長宅爆破殺人事件
〃 12月24日 クリスマス・ツリー爆弾事件
昭和47年2/19~28 連合赤軍、あさま山荘事件
〃 05月30日 日本赤軍によるテルアビブ・ロッド空港事件
〃 11月08日 革マル派による早大生リンチ殺人・死体遺棄事件
昭和48年01月01日 連合赤軍森恒夫、東京拘置所内で自殺
〃 04月27日 革マル派による国鉄品川機関区事件
〃 10月20日 革マル派による中核派拠点三カ所連続襲撃事件
昭和49年01月24日 世田谷区で中核派が革マル派を襲撃
〃 01月24日 中核派による横浜国大内ゲバ事件
〃 01月31日 日本赤軍によるシンガポール事件
〃 02月06日 日本赤軍等による在クウェート日本大使館占拠事件
〃 07月26日 パリ事件
〃 08月30日 三菱重工ビル爆破事件
〃 09月13日 ハーグ事件
〃 11月14日 マル青同、米ソ両大使館に乱入
〃 11月22日 マル青同、福岡の米領事館乱入事件
昭和50年03月05日 ストックホルム事件
〃 03月14日 中核派本多書記長革マル派に襲撃され死亡
〃 07月17日 新橋駅ホームで革マル派と中核派が乱闘 皇太子自動車列に対する火炎瓶等投てき事件
ひめゆりの塔で皇太子・同妃殿下対する火炎瓶投てき事件
〃 08月04日 クアラルンプール事件
〃 09月13日 第四インターによる外務省校内侵入事件
〃 11月21日 大阪・三井物産ビル爆破事件
昭和51年10月13日 日本赤軍の奥平純三ヨルダンから強制送還
昭和52年09月28日 日本赤軍による日航機乗っ取り事件
〃 10月27日 神社本庁爆破事件
昭和53年01月27日 水戸・勝田市内同時「内ゲバ」殺人事件
昭和55年02月22日 中核派、海上自衛隊専用電話線切断事件
昭和63年04月06日 日航機「よど号」乗取りで北朝鮮に逃亡していた柴田泰弘を東京で逮捕
〃 04月12日 米国で日本赤軍の菊村優が爆発物所持逮捕
〃 06月07日 日本赤軍の泉水博がマニラで逮捕
平成07年11月30日 「よど号」犯人グループの中心人物・田宮高麿が北朝鮮で死亡
平成09年02月15日 岡本公三ら日本赤軍メンバー5人をレバノン当局が身柄拘束
平成12年06月27日 「よど号」ハイジャック犯・田中義三を逮捕日本赤軍最高幹部・重信房子を大阪府で逮捕
無政府主義、社会主義を目指す左翼運動は、戦前の日本では徹底的に弾圧された。戦後、60年安保を頂点として左翼運動は衰退し、ソ連の崩壊により求心力を失うことになる。
戦前、日本は天皇国家だったことから、左翼運動は、反天皇制運動でもあった。
明治期から、日本では幸徳秋水をはじめとする無政府主義が秘かに広まり、反天皇制運動が起こった。
しかし過激な運動は根付かず、社会党(1906年)、日本共産党(22年)が誕生して、日本の左翼運動が広まっていく。なかでも共産党は、天皇制反対を唱えたために、非合法化され、警察から激しい弾圧を受けた。小林多喜二の拷問死の写真は、あまりにも有名なシーンである。太平洋戦争で左翼運動は壊滅し、終戦後、占領軍による軍国主義の追放で、共産党をはじめとした左翼勢力が勢いづいた。徳田球一をはじめとした共産党幹部が釈放されると、合法化された共産党は国会でも議席を獲得するようになり、中国の社会主義化とあわせて、明日、革命が起きる、といった雰囲気になった。
これに冷や水を浴びせたのが、ソ連共産党だった。日本共産党の議会主義では革命が起こせない、と暴力革命を指示した。当時、ソ連は絶対視されたために、共産党は中核自衛隊という武装組織をつくり、火炎瓶闘争をおこない、血のメーデー事件をはじめ、各地で過激な闘争を巻き起こした。もともと日本人は穏健なため、共産党の暴力革命路線は支持されず、議会でも議席を減らし、以後、共産党は暴力革命路線を否定する。
【共産主義者同盟】
これに対して、元党員や党を除名になった学生たちが新たに組織したのが、共産主義者同盟(ブント)だった。共産党が暴力路線を放棄したのを批判して、激しい街頭デモをおこない、60年安保闘争の中心となった。安保が自動延長され、闘争が挫折してから、ブントは様々な派に分裂、これに黒田寛一、本多延嘉といったメンバーが新たに日本革命的共産主義者同盟(革共同)を設立し、ブントからの活動家が合流、後の新左翼と呼ばれる一大勢力となる。
新左翼とは、共産党、社会党の伝統的な政党とは異なる新しい左翼勢力のことであり、反帝国主義とともに反スターリン主義が特徴的であった。社会主義国なら正しい、というそれまでの観念を批判して、スターリンがおこなった独裁主義を否定した。「反帝」「反スタ」は新左翼の代名詞ともなった。
60年代後半、日大、東大をはじめとした大学で民主化を求めた紛争が起こり、全国に飛び火して、大学紛争が起こった。これを先導したのが、三派系全学連(中核派・社青同解放派。ブント)であった。いま、68年がひとつのシンボルになっているが、翌69年1月、東大安田講堂を占拠した三派系全学連と機動隊との戦いは、いまでもテレビで時折映像が流される。
【新左翼の挫折」
安保反対は左翼の一大テーマだった。70年安保闘争では、これまでの闘争に不満を持つブントの一部が赤軍派を結成、日本左翼史上最も過激な武装闘争グループとなり、一部はよど号ハイジャックで北朝鮮に渡り、一部は中東でパレスチナゲリラと連帯し、一部は連合赤軍となってあさま山荘銃撃戦をおこなった。機動隊との銃撃戦は一部左翼に指示されたが、同志12名を雪の山中で殺害していた事実が露見すると、新左翼運動は大きな挫折を味わう。
さらに、革共同が中核派(本多延嘉)と革マル派(黒田寛一)に分裂して、内ゲバをおこなうようになり、死傷者が続出することも、新左翼運動退潮の一因となった。
安保闘争で挫折しながらも、左翼は、成田空港反対運動成田空港反対運動や狭山事件裁判の被告支援運動で活発な動きをしていく。
【社会主義は幻想】
その一方で、穏健な路線を歩むようになった共産党と部落解放同盟は敵対関係になった。
社会党は、共産党に比べ開放的で、党内に様々な意見を持つ活動家がいたために、新左翼系の活動家が入りやすく、市民運動にも影響力を持ってきた。土井たか子議員が委員長になってマドンナ旋風を巻き起こしたが、91年ソ連が崩壊し、東欧の社会主義国も崩壊すると、左翼は衰退していく。資本主義が豊かな暮らしをもたらしたことに、市民は社会主義に魅力を感じなくなっていたのだ。中国で天安門事件が起きたことで、さらに左翼運動は力をなくしていった。
現在の左翼は、社会主義から離れ、市民運動や反戦、反核といった運動体に移りリベラリズムとして活動している。