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成田空港闘争・強制代執行

-経緯-

昭和46年9月16日、成田空港建設を巡る反対派と警察の攻防でついに犠牲者が出た。
政府の土地収用法に基づき第二次強制代執行を阻止するため建設反対の地元農民や全共闘、中核派など反対派約5000人と警察5300人が激突した。午前6時45分、機動隊は完全武装し強制代執行を開始した。反対派は火炎瓶、投石などで応酬。これに対して機動隊は催涙弾を打ち込み現場は戦場と化した。

午前7時、雑木と畑に囲まれた通称「東峰十字路」で反対派500人は、機動隊250人に対して襲撃。神奈川県警機動隊の小隊長(当時47歳)が火炎瓶を投下され全身火傷と殴打により死亡した。さらに部下の2人も病院で死亡。この闘争で3人が死亡し多数の反対派、機動隊が重軽傷を負った。


昭和53年5月20日、新東京国際空港(成田空港)は4000メートルの滑走路一本で暫定開港したが、これまでに反対派、警察、民間人併せて9人の犠牲者がでた。平成14年、ワールドカップ日韓開催に合わせて二本目の滑走路を完成させたが、反対派4軒の立退きができず本来の位置をずらしたため中型機しか利用できない2180メートルという中途半端な滑走路となった。

-誰が成田に決定したのか-
昭和37年11月21日、羽田国際空港の混雑解消のため新たに「第二空港建設構想」を運輸省航空局が発表した。この青写真は都心から100キロメートル内で羽田空港の7倍の面積に4000メートル級の滑走路2本を含む5本の滑走路を持つ最大級の国際空港を目指した。運輸省は前年の昭和36年に候補地の調査を実施し千葉県富里地区と茨城県霞ヶ関地区を候補に挙げていた。

昭和38年になって、政界の大物達が次々に候補地を口にし始めた。運輸大臣・綾部健太郎が「千葉県浦安沖埋め立て」を発表すると、政界に影響力が大きい建設大臣・河野一郎が「木更津沖埋め立て」を主張。以降、候補地論は政界・財界で激論が交わされる。

昭和40年7月、河野一郎が急死すると主導権は建設省から運輸省に移る。ここで、千葉県知事の友納武人が「千葉県の湾岸地帯は重工業を起こしたが北総台地は農業が主体の地域で発展に繋がる」と、自民党総裁であり首相の佐藤栄作に千葉県への新空港決定を請願している。その結果、昭和40年11月18日佐藤内閣は新空港を千葉県富里に内定した。

翌41年2月7日、富里への新空港建設反対派3000人は千葉県庁に押しかけ大乱闘となる。これで暗礁に乗り上げたと思われた矢先の同年6月22日、佐藤首相と友納知事の会談で「三里塚の御料地(皇室領地)と周辺の県有地を中心にして民有地にかかる面積を極力圧縮して建設」したいと発表。ここに富里撤回、新たに三里塚の候補地が急浮上した。

政府及び運輸省は、「富里は古くからの農業地帯で立退き戸数およそ1500戸に対して、三里塚は戦後の開拓農家が多く立ち退き戸数も数百戸で済む」という実に安易な発想から決定した。この三里塚案には、佐藤内閣を誕生させた自民党副総裁の川島正次郎と運輸省次官の若狭得治(後の全日空会長)及び友納千葉県知事の3者で決定し佐藤首相が承認したものだった。が、彼らはあくまで机上の論議で事を進め地元の農家には事前の話も協議も無く凡そ民意を全く考えたこともなかった。

この突然の決定に三里塚の農家や学生運動の全共闘らが激怒。反対運動を展開し前述の強制代執行の激突となる。それは現在まで続いており建設から40年かけて2本の滑走路という「世界一恥ずかしい国際空港」として営業している。

この間、羽田空港は東京湾を埋め立てて国内最大の空港になっている。平成12年12月、当時の運輸・建設大臣の扇千景が、「国際線は成田、国内線は羽田という原則は国民もおかしいと思っている」と発言。これでは、三里塚の反対派、強制執行した警察も浮かばれない。確かに成田空港は不便で(東京を基点として)、皇室・首相の外遊と来賓は羽田空港を利用している。政府自ら成田=不便を実証している訳だ。

地元及び利用する国民の不便などお構いなく、建設=利益ということだけに興味があった政治家・官僚・財界らが引き起こした「成田空港決定」に関して誰が犯人なのか?政府・官僚・千葉県の当事者はひたすら押し黙っている。

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強制代執行で反対派の鉄塔が取り壊される 完成当時の成田空港

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成田空港30年を振り返る

 成田空港

 1966年7月、羽田に代わる国際空港として国が成田市三里塚に建設を決定。これに対し、農民たちが「三里塚・芝山連合空港反対同盟」を結成、反対運動は長期化した。

 71年の第1次代執行による土地収用、第2次代執行では、警察官3人が成田市・東峰十字路で襲われ、死亡した。78年3月には過激派が管制塔を占拠、開港が延期された。騒然とした状況のなか、78年5月20日に「新東京国際空港」が開港した。

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成田空港開港延期で苦り切った表情の福田赳夫首相=院内総理室前で1978年3月28日撮影

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ゲリラに占拠され、救出を待つ成田の管制官。500人の過激派が空港に乱入、うち6人が管制塔に侵入、2時間半にわたって占拠した=1978年3月26日撮影

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放火された敷地の枯れ草とデモ隊。3月30日開港に致命的な打撃を受けた政府は開港を大幅に延期、過激派の厳重取り締まりを指示した=1978年3月26日撮影

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火炎ビンを投げる過激派。反対派の闘争は8日に及んだが、初日は7回の波状攻撃で、火炎ビン攻撃やトラックの焼き打ちなどで機動隊をほんろうした=1978年3月26日撮影

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3月30日の成田空港開港予定前の26日、過激派のゲリラが蜂起。中央管制塔に突入、6人の管制官はヘリで救出された=1978年3月26日撮影

<成田空港闘争>保釈中逃亡の被告、29年ぶりに出頭し収監

20080606-00000002-maip-soci-view-000.jpg 成田国際空港用地の強制執行を巡り1971年7月、反対派と警官隊が衝突した事件で公務執行妨害と凶器準備集合罪で起訴され、保釈中に開かれた79年の1審千葉地裁の判決公判前に逃亡した元地方公務員、渡辺往勇(ゆきお)被告(69)が千葉地検に出頭し、収監されていたことが分かった。今月20日に29年ぶりに公判が再開され、判決が言い渡される。
 捜査関係者によると、渡辺被告は3日午前1人で出頭し氏名などを名乗った。千葉地検が指紋などで本人と確認し、同日中に千葉刑務所内の拘置施設に収監した。

 渡辺被告は71年7月26日、空港用地内にあった反対派の地下壕を撤去しようとした警官隊と衝突。警察官を角材で殴るなどして公務執行妨害容疑などで逮捕、起訴された。空港用地では、強制収用を進める国側と建設反対派の闘争が激化しており、渡辺被告は中核派メンバーとして事件に関与。この事件では計274人が同容疑などで身柄を拘束され、警察官ら約300人が負傷した。

 千葉地検の調べに渡辺被告は「組織とかかわりを持ちたくなかった。日雇い労働などで生計を立てていた」と供述しているという。【駒木智一、柳澤一男】

King Of RED


もと連合赤軍の植垣さんです。

永田洋子

連合赤軍の女幹部 1972年 連合赤軍リンチ殺人事件

連合赤軍"リンチ殺人"の主役 革命を「悪夢」に変えた女

img007_600.jpg ながた・ひろこ
 1945年、東京生まれ。共立薬科大
 学在学中に左翼運動をはじめる。
 過激派の日本共産党革命左派神奈
 川県委員会から71年に連合赤軍へ
 合同。72年、逮捕される。93年、
 最高裁判所で死刑が確定。





田洋子は現在61歳である。逮捕されたのは27歳だから、すでにその人生の半分以上の34年間を拘置所で暮らしたことになる。死刑が確定したのは1993(平成5)年で、13年間を死刑囚として生きている。
 連合赤軍派赤軍派と日本共産党革命左派というふたつの過激派が合同して山岳ベースで結成されたものである。永田が属した革命左派は毛沢東を信奉する一派であり、「農村から都市に出撃する」という毛沢東戦略を日本で実現しようとしていた。
 永田洋子は連合赤軍事件のひとつ、山岳ベース事件の主犯だった女である。永田らの連合赤軍はゲリラ攻撃の山岳ベースとして妙義山などの冬の山に立て篭もり、その過程で14人の仲間を次々と殺していった。
 山岳ベースで軍事訓練をして、そこを拠点に都市にゲリラ活動を行おうというのが連合赤軍の目的である。赤軍派と連合した一方のセクト「日本共産党革命左派」の指導者に永田がなったのは、、上の幹部がごとごとく逮捕されてしまったからである。アジトを出た永田も逮捕され、連合赤軍は警察に追い込まれて浅間山荘に立て篭もることになる。


【傍らには常に強い男】
田がいたセクトはフェミニズムを運動のひとつとの柱としていた。だが永田はその指導者にゴウカンされたと手記に書いている。その指導者が刑務所に入ると、同じセクトの坂口弘と結婚する。
 ところがリンチ殺人が進行していた山岳アジトで坂口と離婚し、合同した赤軍派の森恒夫と結婚の宣言をして仲間を驚かせる。逮捕されてからは連合赤軍のメンバーで事件の被告として法廷でも同席した植垣康男と恋愛関係にもあった。植垣が出所したあとは支援者と結婚して、今は法的には人妻である。
 永田の男遍歴をよくながめれば簡単な事実がわかってくる。それは永田は常に傍らに男を必要としているということである。さらにその相手は、常にその時もっとも永田にとって都合が良い、たとえばもっとも権力をもっている男であることが多い。
 セクトの指導者にゴウカンされたという永田の告白については、同じセクトの出身でリンチを生き延び、浅間山荘事件で逮捕されて出獄したメンバーのひとり、加藤浩司が「怪しいものだと思っている」としている。その上でこう書く。
「永田は(ゴウカンしたというその指導者の)拘置所へ面会にも出かけているし、何よりも(略)関係によって組織内での影響力を高め、(略)下獄した後はやはり幹部の坂口と『同志的結合』をしたdのである」(『週間新潮』02年3月14日号より)
 加藤は永田が主導するリンチで兄を失っているから、永田への恨みがあるとも思えるが、この流れでいくと、永田が坂口と別れて森恒夫と唐突に結婚したのは自然なのである。連合赤軍では森恒夫が最高権力者だったからである。

img008_600.jpg「おとめ乙女」した女
京拘置所で永田といっしょだったある死刑囚が証言を残している。宝石ブローカー、金融業者殺害で死刑囚となった元警視庁警部、澤知和夫である。拘置所内で永田とたびたび文通をした澤知は永田の印象をこう書いている。
「とても『おとめ乙女』していて、実に純真で無邪気なのである」「永田はやや出っ歯でギョロ目ではあるが、しかし小柄でなかなかかわいい女ではないか」(『アサヒ芸能』93年8月5日号より)
 だがそのうえで「被告人永田の個人的資質の欠陥と森の器量不足に大きく起因し」という判決の分析は正しいとしている。女性の仲間をリンチする様子を永田の手記は淡々と記しているが、他の記録ではそうではない。加藤浩司はこう書く。
「女性同志に対する永田の『総括』要求は、このように陰湿なものだった。大小便を垂れ流しにさせたうえ、自分で自分の髪の毛を切らせたりするなど、およそ耐え難い恥辱を味あわせるのが常だった」(前出『週間新潮』より)
 脳腫瘍とも闘う死刑囚、永田洋子は獄中でボールペン画を書いている。少女漫画チックな、大人の手によるとは思えない異様な絵である。
(桃井四六氏文より転載)

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