極鬼舎
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なんば・だいすけ
1899年、山口生まれ。父は議員を
つとる地元の名士。中学時代から
学業不振に陥り、旧制高等受験に
も失敗し、東京に出て早稲田高等
学院に入学。テロリスト志向を強
め、1923年、摂政宮を銃撃。摂政
宮は無事だった。難波はその場で
逮捕され、翌24年、大逆罪で死刑
に...
1923(大正12)年12月27日、貴族院開院式に向かう途中の摂政宮(皇太子。のちの昭和天皇)の車をステッキ銃の凶弾が襲った。即座に取り押さえられた男は、警官にさんざん殴られた挙句、連行されていった。
男は難波大助という青年だった。難波は犯行動機について、13年前に起きた「大逆事件」を引き合いに出した。以下、訊問調書から引用する。
「(大逆事件)一個のわれわれと同様な人間に過ぎぬ天皇をただ殺さんと陰謀をしたというだけで、いまだなんら実際的な行動に出ずにもかかわらず残忍にも若き24名の命に対し死刑の宣告を下すのは暴虐と言おうか非人道と言おうか、これ以上残念な法律が世界のどこにあるだろうかと言う事を感じた」また、「皇室が無産者への直接圧迫者でないことをは認めます。しかし皇室は無産者へ権力者が加える暴圧の道具でありますゆえに、私は特権階級へ対する厳酷なる警告のひとつとして皇族に対してテロリズムを遂行するものであります」とも言っている。
だが、難波には、自分の学業不振という現状と、東大・京大に進んだ優秀な兄弟への劣等感、極度にケチだった父親への怨みもあった。こうした不満が強行に結びついたという見方も確かにできる。しかし、訊問調書を通読すると、難波が思想を行動の根拠にしていたことも見えてくる。
精神鑑定をした東京帝大教授・呉秀三は「本人は幻覚および錯覚を有せず妄想と認むべき固着せる思想もなし、ことに皇室あるいは社会に対して被害的の念を抱くところなく、また自己を特に誇大的に尊重するがごときことなし」と記している。難波は死を覚悟して発砲に及んだ確信犯だった。「ごまかしの生活には堪えられなくなったのだ。アナーキストでござい社会主義者でございと大きな顔をして象牙の塔の奥深く閉じ籠り彼らのいわゆる学理を研究するということと汗の革命運動とは何らの関係がない」(弟に宛てた書簡より)
24(大正13)年、大逆罪として難波は死刑となった。
(栗原正和氏)より転載
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