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荒畑寒村

時代の荒波をくぐりぬけた 1946年日本社会党結成 横暴な「テロ」は認めない情緒性豊かな社会主義者

 


あらはた・かんそん
1887年、神奈川生まれ。本名・荒畑勝三。
社会主義運動家。戦前は何度も投獄され
ながら社会主義の活動を精力的に行い、
数多くの盟友を失いつつも生き残り、自
由を手に入れた戦後には日本社会党結成
に加わり、衆議院議員も二期つとめる。
その後は言論を中心に活動した。1981年
死去。


 治末期、若き荒畑寒村は、幸徳秋水や堺利彦の『平民新聞』に感銘を受け、社会主義運動に身を投じる。平民新聞の編集にも携わるようになり、多くの左翼活動家たちと知己を得ることになった。
 荒畑は和歌山で新聞記者をしていた時代に、菅野スガと契りを結ぶ。しかし、荒畑が入獄中、スガは幸徳秋水のもとに走ってしまう。
 菅野スガと別れた一件は、若き荒畑の心にしこりを残した。奔放な恋愛をいとわない無政府主義的な価値観に対して、荒畑は批判的だった。
 のちに、大杉栄が痴情のもつれから神近市子に刺されてケガをした事件についても、荒畑はこう語っている。
「(大杉の)神近女子に対する態度はとうてい認めるわけにはゆかぬ。他の一切の自由が存在しない今日の社会で、恋愛だけが自由である筈がない。平生その生活環境に反抗することを主張している彼が、恋愛の満足のために他人の苦痛や悲哀を顧みないとしたら、アナーキストとはタイラント(暴君)の同義語とならざるを得まい」(『大杉栄免聞』1963年)
 荒畑が、自由を標榜する無政府主義者たちと足並みを揃えて活動することができなかったのも、こうしたところに原因があるのかもしれない。
 浅沼稲次郎が山口二矢に刺殺されたとき、荒畑はテロを批判している。
「一人の浅沼稲次郎を除けば、自分の気にくわぬ思想や運動を阻止しうるという考えは、一人の英雄が出現すれば、一切の弊害が改められ、理想的な制度が出来上がるという考えと、表裏一体の迷モウである」(『浅沼君の死をいたむ』1960年)
 荒畑は1960年代から70年代の日本のめざましい経済発展を見届けて、80年代初頭に世を去る。93歳の大往生だった。 
(栗原正和)氏記事より転載
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