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朴烈・金子文子

激烈なる恋人たち 1923年朴烈事件 皇太子暗殺計画と「何が私をこうさせたか」

img143_600.jpg パク・ヨル(和読みでぼくれつ)
 1902年韓国の慶尚北道生まれ。
 本名・朴・準植。皇太子暗殺
 計画をしたとして逮捕される
 が戦後に釈放。74年死去。/
 かねこ・ふみこ
 1903年神奈川生まれ。23年恋
 人の朴烈とともに同容疑で逮
 捕。26年獄中で自殺。「何が
 私をこうさせたか」という儚
 く激しい手記を遺す。

1923(大正12)年は無政府主義者たちへの弾圧が最も激しかった年だった。この朴烈事件も、そのひとつに数えられる。朴烈は19(大正8)年、日本の植民地であった朝鮮半島から、来日した。そして社会主義・無政府主義の活動家たちと交流を始める。朴は22(大正11)年に、金子文子と恋に落ちた。金子文子は子供のころに朝鮮半島に住む叔母の養子として引き取られたこともあり、朴烈への民族差別意識は希薄だった。二人はお互いの気性の激しさに惹かれあう。
 翌23年、朴と金子は無政府主義者のグループ「不逞社」を組織。ここで皇太子(のちの昭和天皇)の爆弾襲撃を計画したとされ、逮捕された。だが、計画は空想的で、現実味が薄かった。
 朴烈事件には、関東大震災の際に起きた民衆や官憲による朝鮮人虐殺の実態を隠蔽するための、権力者側の意図がはたらいていたと見る研究者もいる。真偽はわからにが、少なくとも朝鮮人がひどく差別されていたのは間違いない。朴烈が、韓国の京城高等普通学校師範科の学生だった時代の話として、同化政策の実態を供述している。
「全ての学科は日本語を教えるための学科であり、朝鮮人を日本の奴隷とするために用意されたものであった。博物歴史の教師は日本と朝鮮とは同国であり(中略)忠君愛国を説き、日本の天皇の有難いという事を説明したが、俺達には少しも日本の天皇の有難味がわからず興味を引かなかった」
 朴と金子は自らを無政府主義者と言うよりも虚無主義者であると規定し、法廷で反・天皇制激烈に主張した。そして26(大正15)年、死刑を言い渡されるが、のちに無期懲役に減刑される。だが、殺すなら殺せと言わんばかりの虚無主義者にとってこれは不満であり、金子は獄中で首吊り自殺した。朴烈は22年の長きにわたって獄中にいたが、日本が敗戦を迎え釈放された。そして在日コリアン団体・韓国民団の初代団長となったあと、韓国に戻る。韓国の初代大統領・季承晩のもとで国務委員もつとめたが、朝鮮戦争の際、北朝鮮に連行されたと言われている。そして74(昭和49)年まで生き、北朝鮮で死去した。
(栗原正和氏文面より転載)

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