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「血盟団員」だった右翼の父と語った"世界同時革命"
しげのぶ・ふさこ
1945年、東京生まれ。明治大学
二部在学中に学生運動に身を投
じる。赤軍派に所属して71年、
パレスチナに渡る。その後、日
本赤軍の最高責任者。2000年、
密かに帰国中に大阪で逮捕され
る。
日本赤軍の重信房子が大阪の高槻で逮捕されたのは2000(平成12)年11月である。日本を出国したのが1973(昭和48)年だから丸々27年間、姿を消していた。逮捕後、オランダッで起きた「ハーグ事件」における監禁・殺人未遂の共謀共同正犯の罪で起訴され、06年6月、東京地裁で判決があった。裁判は有罪、無期懲役の求刑に対して懲役20年の刑が言い渡された。重信は無罪を主張して即座に高裁に上告している。
日本赤軍と、そのリーダーだった重信房子についての報道や記録はおびただしいが、なかでももっとも興味深いのは重信の父への取材である。重信(偽装結婚しているか戸籍上は奥平)房子の父、重信末夫は戦前の右翼テロ事件「血盟団事件」に関係した男である。このことを発掘してはじめてインタビューしたのは、まだ産経新聞の社員だった鈴木邦男である。民族派の『やまと新聞』紙上に掲載されたインタビューで、鈴木の質問に重信の父はこう言った。
「警察が何回捕まえようと、マスコミがどうこう言おうと自分の初心を貫くことは立派だと思う」
「戻るな」と言った父
インタビューは74(昭和49)年。日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件が起き、パレスチナに渡った日本赤軍幹部として重信房子の名が禍々しいものとし報道されたあとである。この2年前には浅間山荘事件があり、東京の町田に住んでいた重信の父のもとには嫌がらせの脅迫が殺到していた。鈴木は重信の父の態度と言葉に心を打たれる。鈴木が原稿を書き、記事になって原稿料を手にしたのはこの時がはじめてであり、このインタビューをきっかけとして産経新聞を辞めて民族運動に専念することになる。
重信の父は『文藝春愁』に「重信房子の父として」と題された7ページの手記を残している。教育者だったからか文は達者である。そこで冒頭からこう記している。
「房子が外国へ行くとき、わたしは『戻るな』と言った。どこへ何をしにくのか知っていたわけではない。だが革命家というのはいつも、大きな流れの中で寂しくてきびしい思いをする」
重信末夫は宮崎の都城出身。現在の東京理科大学を卒業して故郷で代用教員をしていた時に血盟団事件に誘われる。しかし首謀者の井上日召に「お前は教育者だ」とあとのことを託されてテロの実行役からはずされている。
【田宮高麿との結婚を嫌う】
パレスチナに渡る以前、重信房子は家に学生運動のメンバーをよく連れてきている。そこでたびたび父を交えた会話と議論があった。かなり深い話もあったようだ。
「私がかつて右翼クーデターに参加した人間であることは、子供たちは知っている」「話題は当然、革命に及んだ。歴史の大きな流れのために、私は革命は時には必要なものだったと思っている」
しかし赤軍派についてはこう言う。
「房子の言う赤軍の世界同時革命という理論だけは、私は最後まで反対だった…中国で言う天が、仮に客観的必然性といったことを指すとするなら、房子たちの理論にはまったく天がかけていた」
手記の最後はこう結んでいる。
「ともあれ、房子は海のかなたに去った。アヒルは記しには戻らないだろう、と私は考えている」
パレスチナへ入ったのは、抑圧されているパレスチナ人と共闘して、そこを根拠地として世界同時革命を闘おうという目的のためである。
重信の父は娘が国際手配を受けたあとも堂々と生きて、83(昭和58)年に73歳で死んだ。
逮捕のときこそ、その豹変ぶりから「ふつうのオバサン」と揶揄されたが、重信房子を罵る言葉は右からもない。左にとっては今も「全共闘のジャンヌ・ダルク」で、田宮高麿にいたっては「史上最高の女は重信房子だ」と叫んだ。
重信のパレスチナ行きには、その田宮が関連しているという話がある。赤軍派議長の塩見孝也から重信房子に北朝鮮に渡って田宮と結婚せよとい指令があり、それを嫌った重信がほとんど思いつきでパレスチナ行きを決意したというのである。これは事実だと思われる。
(桃井四六氏文より転載)
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