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黒田寛一/本多延嘉

カリスマ指導者"クロカン"【革マル】 早熟の共産主義者【中核】 1970年代 中核・革マル 内ゲバ殺人



100人以上の死者を出した中核vs革マル「内ゲバ」の原因
 
img005_600.jpg くろだ・かんいち/ひろかず
 1927年生まれ。旧制東京高校を結核で
 中退。57年、革命的共産主義者同盟全
 国委員会議長。63年、委員会を出て革
 マル派を結成して議長に就く。以降、
 革マル派に君臨し続ける。06年、病死。

 
 





img006_600.jpg ほんだ・のぶよし
 1934年、埼玉生まれ。中学生で日本共
 産党に入党。56年、日本共産党のあり
 かたに反対して日本トロツキスト連盟
 、翌年、革命的共産主義者同盟結成し
 全国委員会書記長に就く。75年、革マ
 ル派に襲われて死亡。






100人以上の死者を出した中核vs革マル「内ゲバ」の原因

「内
ゲバ」の"ゲバ"とはドイツの語のゲバルト(Gewalt-暴力)の略である。それが内部に実行されるのが「内ゲバ」ということになる。今では仲間同士のもめ事一般にも使われるが、この言葉が登場したのは60年代末、学生運動のなかである。当初は全学連内部の異なるセクト同志が角材を振り上げて争うという牧歌的なものだった。
 しかし全共闘運動が終焉した70年以降は内ゲバは大セクトの中核派、革マル派の流血の抗争に代表されるようになる。内ゲバという言葉はがぜん陰惨な響きをもつようになった。両派の争いの支社は00人以上、不具を残す重傷者をふくめた負傷者は千人単にのぼるとも言われている。

img155_300.jpg
1975(昭和50)7月17日東京・新宿駅で、待ち伏せしていた中核派が到着し
た電車内の革マル派に襲いかかり大乱闘。乗客も含め多数のけが人が出、
321人が逮捕された。写真は竹ざおなどが散乱する京浜東北線電車の内部
。戦闘力そのものでは中核派の勝ち、情報戦では断然、革マル派の勝ち
だったとされている。


【異なる内ゲバ論】
だし両派ともこれを内ゲバであることを否定する。両派の内ゲバが最高潮を迎えていた75年(昭和50)年、中核派書記長、つまり最高指導者んp本多延嘉は立花隆の質問にこう答えている。
「二つの社会的な集団が物理的手段を使って闘争しあう中では、死者が出るのは当然ではないか」「戦争に戦死者はつきものじゃないか」(立花隆『中核vs革マル』より)
 本多は他の機会でも全く同様の発言をしている。戦争であるというのが中核派の見解である。
 一方の革マルはどうか。革マル派の最高指導者はクロカンこと黒田寛一である。黒田はこの争いを戦争とは名づけず、中核派の殺人行為に対する正当な報復であり、組織防衛にすぎないとする。
「殺しをやった特定の党派の革命的解体を目的にした闘争が、直接的党派閥戦争だ」(玉川信明『内ゲバにみる警備公安警察の犯罪・下』より)
 呪文的で独特な言い回しのクロカン語を翻訳すると、"革マル派による攻撃は、殺人をやった中核派を潰すための行動である"となる。
 ようするに同じゲバでも両派によって意味が違うのだが、これは両組織の根本的な違いに対応する。中核派は大衆運動、直接行動優先だが、革マル派は革命を行う党の構築を優先する。
ここらへんは革命運動の神学論争に近づいていくのだが、実は、両者はもともとはひとつだったのである。
 日本共産党の議会主義に対して翻して59(昭和34)年に作られた革共同(日本革命的共産主義者同盟)が結成された時の主要メンバーが本多延嘉、黒田寛一である。63(昭和38)年に黒田のグループがここを飛び出して革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)を結成する。残った本多のグループは黒田らを分派と規定して、同盟の全国委員会の組織を抑えていた自分たちを中核派と称した。
 "日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派"とはあまりに名前だが、実はここにも革マル派-クロカンの特徴が現れている。同じ意味の語を同義反復で呪文的にアジるのがクロカン節の特徴なのである。


【革マルに殺された本多】
派の内ゲバは本多殺害でピークを迎える。75(昭和50)年、本多は隠れ住んでいた埼玉県川口市の田んぼのなかのアパートで革マル派に襲撃され、頭を割られるなどして殺される。対して中核派は報復戦に出たが、さすがに世論の風当たりは強くなり両派のゲバは下火になっていった。
 本多延嘉は名家の生まれだったとされるが、中学生で日本共産党に入党している。弁舌と組織作りの巧みさは早くから新左翼内で注目されていた。カリスマ性もあったから、たちまち人を集めた。黒田らと革共同を結成した時は早稲田の学生だった。
 黒田寛一は独学でマルクス主義を学んだ。20代に結核で失明し、毛髪もほとんど抜け落ち、人前に出る時は登山帽とサングラスを着用した。人前に出ることはめったになく、革マル派の集会はクロカン節の演説テープで流されるだけだった。趣味は秘書に読んでもらう読書と音楽鑑賞。一時、演説が流れる前にはクロカンが好きなコンチネンタル・タンゴが流された時期もあるという。そんな黒田の人格が革マル派の秘教的性格を作ったとも言える。
中核派の襲撃を逃れ抜き、2006(平成18)年6月、埼玉の病院で肝不全で死んだ。78歳だった。
(桃井四六氏文面より転載)

 

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